第二回・中

「何を考えて、壁に彫ったりしたのか?」
「常々、上帝に私心なしと聞いておりますのに、なぜ”秘”の一字があるのか納得ゆきませんでした。思うに、秘すといいながら紙に書いてあるのは、広く世に伝えるためではないか。ならば、上帝が書物を箱に収めるのも、わしがこれを壁に刻むのも、同じ行為ではないかと考えまして」
「畜生め! 調子にのって強弁をふるうか」
 今度は舎人に大喝されて、袁公は慌てて頭を地面に叩きつけ、「死罪を」と連呼してから申します。
「わしはひとえに愚直でありますゆえ、おのれの考えを述べましただけで、どうして強弁など」
「よいか、あの玉の箱は天の宝ゆえ、三つの”開かず”の規則があるのじゃ。一に、混元老祖の許しがなければ開かず、二に、九天玄女嬢さまの許可がなければ開かず、三に、玉帝の趣旨がなければ開かず。しかるに、おまえのような獣に、どうして開けられたのだ?」
「三回試しましたうち、はじめの二回は開きませんで、ふと気がついて、我が師、九天玄女お嬢さまの名を唱えましたところ、蓋はすんなりと持ち上がりました。わしだけの力では、とても中は覗けなかったでしょう。今になって天の法令の厳しさを思い知りましたが、これはわし一人の罪であって、玄女さまには関係ありません。わしは常々、世間の偏狭さを恨んでおりました。いつもいつも、たった一封の書状に書かれたちょっとばかしの文字だけで、人は罪を着せられます。天の庭でさえ広々としてはおらず、たった三寸の小冊子を覗いたばかりに、剣術を好む心が、かえって盗人の汚名を被りました。悔やんでも悔やみきれず、死んでも心は安らぎません」
 舎人の禰衡は、世間の偏狭さを云々の話をきくと急に動揺をあらわにし、例えば孫策の一封の書状で劉表が罪せられたことを思い出しました。まして心が真直ぐな袁公の悲憤を見れば、おのずと涙がこぼれ、情けを忍ばれず北斗星君に向かって言いました。
「この獣の言い分は今の言葉に尽きるでしょう。法廷を開くのも因縁によると申しますし、ましてこの者は九天玄女嬢さまの高弟。いかがでしょう、もしよろしければ、真君と私とで、かれが心を改めたことを玉帝に奏上しようと思うのですが」
「もともと先生の部下ですし、お任せしますよ。ただこのたびの裁判は百神も知るところですので、誓紙をとっておくべきかと」
「さすがに。真君の仰言るとおりです」
 そうと決まると、左右の吏卒に命じ、筆やら硯やらを持って来させ袁公に与えました。どうやら舎人は罪を許すつもりらしいと分かって、袁公は喜び勇んで筆を取り、こう書きました。
 供状
 わたくしこと袁公は雲夢山白雲洞にて年月を忘れるほど修業に打ち込んでおりました。その後、我が師、九天玄女さまに推薦していただき、帝恩をたまわって白雲洞君に封じられ、修文院に属し、九天秘書を守る役にあずかり、多年勤務して過失はありませんでした。近頃、神さま方が蟠桃の宴に赴いたとき、不徳のいたすところで、随行できぬまま、天の封印を開き、秘册を盗み見たいと思い、二度挑みましたが開きません。思いたって、我が師、九天玄女さまの御名を唱えますと箱が開き本を得ました。天上無私という言葉を世間に尽くすことと勘違いして、文を白雲洞の壁に刻みました。こうなりましたのも、向学心の致すところ。少しも邪念はございません。かりに許しを得られましたならば、願わくば、凡人に秘密が洩れぬよう護法に心がけ、もし違心あらば、甘んじて天誅を受ける所存です。この供書に嘘はございません。
 ……北斗星君は一読し、笑って申します。
「よほどの名文句だな。おまえの身も十分晴れたぞ」
「いいえ、わしの身が晴れたのではなく、心が晴れたのです。一は一ですぞ。二は二ですぞ。わしの喜びと比べられますかな。三ですぞ、四ですぞ、もっとありますぞ」
 飛び跳ねる袁公を見て、舎人と左右の吏卒は大笑いしたものです。それから星君と舎人は立ち上がり、かれを連れて霊霄(れいしょう)宝殿に着き、玉帝に奏上いたしました。
「袁公の罪は重いものの、情状酌量の余地があります。また混元老祖の詩にも”玉の箱が開き、縁は来たり。玉の箱が閉じ、縁は去れり”とありますし、”縁”は”袁”とも読みますゆえ、あるいは袁公の縁によって自ずから箱が開いたのかもしれません。もはやかれに邪心はなく、どうか九天玄女さまに免じて釈放の恩情を乞いたてまつります」
 これによって玉帝は死罪を免じ、白雲洞君の号を改めて白猿神となし、洞窟の石壁の守りを言い渡しました。また別に命令書を出して、かれが本拠に戻ったあかつきには、天然の城郭を成している辺り一帯から、子猿や孫猿たちを全て追い出し、十里以内には決して入れず、袁公ただ独りが住むように。もしみだりに凡人に洩らしたら、死罪に処すことを申しつけました。袁公が恩を謝しますと、玉帝はみずから白玉の香炉をかれに与えました。この香炉は自在炉と申しまして、かれが洞内で修業にいそしんでおります間は、ひとりでに香炉から煙がもくもくと立ちのぼり、天門まで届きます。洞門を離れますと煙は止み、かれの野心に反応して香炉の中で赤く火がともります。袁公は再び礼を言い、こう申します。
「雲夢山白雲洞は険阻な所とはいえ、世間から全く隔絶されたわけではありません。聞くところによりますと、仙官の張楷さまは術で五里霧を作られるとか。願わくばその力を貸していただき、洞門を外から覗けないようにしては頂けませぬか」
「霧が欲しいのか。ならば、仙官の手をわずらわせるまでもなかろう」
 そう言って玉帝は手を叩き、天庫から法外な値うちのある宝物をひとつ、持って来させました。宝の名は霧母といいます。そもそも世界には”四母”があり、第一の気母は、その中に天の気の根源をおさめ、大千世界は全てこの中で回転いたしております。現在、弥勒禅師が提げている布袋の中にあるのが、つまりこれであります。

  和尚の腹の皮は水がめのごとく 縫い閉じた眼(まなこ)に笑みを含めり
  布袋を朝晩引っ提げて 軽いやら重いやら知れず
  中に何があるかと問えば 陰陽の気ここに詰まれりという
  世界に蠢く人々を和尚は笑う 袴の中で蚤や虱が騒いでおるそうな