セイレーン(ショートショート)

俺はいつものように船の舵を取った。
いつもと違うのは乗組員が俺一人だということ。
この大きな客船をたった一人で操っているというのはちょっといかした気分だ。

今日は噂の女に会いに行く。
この間酒場で聞きかじって以来、夢にも見てしまうほどの女。
いや、会えるかどうかは運次第だ。
もしかしたら会えない方が運がいいという話もあるのだが。

波は凪いでいて、すこぶる快調な船足。
空には雲一つない…はずだった。
しかし、大きな稲光を合図に、曇天の嵐の航海に変わるのにそう時間はかからなかった。

かなり安定性の高いはずのこの船も想像以上の波に揺さぶられる。
これを一隻潰したら俺の損失は…、一瞬頭をよぎった。
高波は帆を破り、救命用のボートやオールを流し、さらにその渦の中に舵を無力化した俺達を丸ごと飲み込もうとしている。
「大食漢にもほどがあるぜ、おい」
毒づいてみたが意味などあるわけもない。

そして俺は音を聞いた。
いや、声だ。
「まさか…」
こんなところに人がいるわけがない。
飲み込まれる船体があちこちからばりばりと音を立てては水を噴出す。

俺はついに出会ったのかもしれない。
死の女神に。
遠ざかる意識と不可思議にも沸きあがってくる喜びに俺の口元は歪んだ。

<END>

2005.4.音和さいる

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