反芻(ショートショート)

なんとなく、昔、好きだった人のことを思い出していた。
その人は実像は置き去りに悪名の方が轟いている、名前を知らぬ人のほうが少ないであろう人物。
彼には妻がいて、権力者の常として他にもたくさんの妾と呼ぶべき存在を抱えていた。
ただ、少し特殊だったのは、その人は同じ男しか愛せなかったということ。
それを隠すかのように、自分と同じ性癖のものを社会的に迫害し、撲滅した。
無論、自分が愛すべき対象は除いて。

彼の妻はそれを知っていた。
性的に欲望に基づいて求められることがなかったとしても、彼女は彼女なりに彼の存在を母親のように慈しんでいたのだから。
僕にはそれが口惜しくもあった。
どれだけ性的な関係を持とうとも、彼女の抱く愛には叶わないような気がしたからだ。
どれだけ抱かれても、僕は「女」にはなれない。

好きな気持ちでは、求める気持ちでは、負けることはないと思っていた。
でもそれは、他の奴らだって同じだったろう。
地位の向上をもくろんで抱かれるものもきっといた。
脅されたものもいた。
彼自身の気まぐれに堕とされた者もいた。
でも、それら全てが、最終的には彼の求心力に脱帽せざるをえなかったのではないだろうか?
そして、誰よりも彼を得ようと求めた。
愛した。
認められたくて、功績を残した。
競い合うようにして…殺した。

もしかしたら彼は、それが狙いで本質ではないホモセクシュアルの演技をしていたのかもしれない。
彼が本当に愛していたのは、彼の妻だけだったのかもしれない。
今ならば、そういうことにも思いが至る。
でも、あの頃は…。
冷静になれる時間なんて、与えられなかった。
いや、そんな時間なんて欲してなかったと言うのが正解か。

相変わらずの愛人生活は、当時譲りなのかもしれない。
僕が欲しかったのはただ、
「Ich liebe dich.」
耳元で吐息混じりに囁く、あなたの一言だった。


<END>

2010.07.音和さいる

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