とりあえず「人魚姫の恋 」

先日知人が結婚しまして、ってよくある話ですね。
まあそうなのですが、ちゅりの知人(女性)の場合、ある日「仏像」が好きという理由だけでぶらりとインドに旅行に出かけてしまったんです。
そして、そのまま一ヶ月の音信不通。場所が場所だけに
「あいつはもう河に浮かんじゃってるんじゃないか」
なんて言い出す人もいる始末。そんな彼女がその数日後、日本で待っていた恋人の元に現れたんです。彼は彼女が無事だったことに喜んだようですが、その彼女の口から出た言葉が、
「私、結婚したから」
だったそうです。
「!?」
一ヶ月ちょっとの間、ずっと待っていた彼としてはあいた口がふさがらない、怒るよりも驚きで頭がパニックだったらしいのですが、彼女の話をまとめると、

彼女はインドにて、同じ目的で旅行に来たイギリス青年に出会った
→ 一緒に行動しているうちに恋に落ちた
→ ついでに結婚しちゃった

ということらしいのです。
そして今から今度はスコットランドに行かなきゃいけないからお別れの挨拶に日本に寄ったのだ、と。
なんともスピーディーじゃありませんか?
こういう運命の出会いなんてものもあるんだなあと驚く反面、目の前で節分の豆を齧りながらこの話をしてくれた(2月でした)彼も不憫じゃのぉと思えたり。その後彼は音楽プロモーターの道に邁進しているので女どころじゃないと思うのですが、しばしゆっくり傷を癒してください。頑張れOっち!

さて、皆さんはauのCMをごらんになったことがありますか?
話すことができない彼女と健常者の彼の物語
「君ノ、トナリイイデスカ?」
ご存知ない(もしかしたら九州でしか放送されていない?)方もいらっしゃると思いますので内容を少し説明します(多少の違いは見逃してね)。

一人の青年が喫茶店である女性に出会います。ただ普通に話しかけても彼女には通じないのです。それで彼は手話で話しかけて友達になり、付き合い始めることになります。しかし、恋人同士の常としてちょっとしたすれ違いで喧嘩をしてしまうのです。悩んだ彼は別れの相談を友人に持ちかけます。
それに対する友達の答えは「だから止めとけって言ったのに」。
でも、反対される前から決まっていた彼の心は、やっぱり彼女の元へとその足を運ばせるのです。
「走れ〜」という友人の声援を受け彼は足を急がせます。そこで彼女の元にたどり着いた彼が送るメールが
「君ノ、トナリイイデスカ?」
なのです。

さて、なぜ最初にこの二つの話を並べたのでしょうか?
ちゅりは始めにこのCMを見た時、最初のシーンだけを見て
「ん?外人さん?」と思ったんです。もちろん勘違いでしたが(^−^;)
で、この観点でコミュニケーションということを捉えると
「国際結婚」と「健常者と障害のある方との結婚(恋愛)」って似ているな、と考えました。

人魚姫がどうしてタイトルに出てきたか、もうおわかりでしょう。
人魚姫がタイトルであれば、「一目ぼれの恋」「理想と現実のくい違い」など、他にも論じやすいネタはありますが、もう一つの大きなポイントが
「(世界が違う)障害のある恋」です。
特にこの場合はコミュニケーション障害についてですね。

先の知人の場合は、用いる言語が異なるという理由で、奥深いコミュニケーションをしていく際に心のヒダまで伝わりづらくて苦労する場面もあるでしょう。それもお互いが言語の知識を補い合う努力があれば、何とかできるだろうとは思います。
後者の場合は使う言語は日本語ですから言葉を伝える手段(手話という言語やメール、文字書きなど)をどこまで使いこなせるか次第だと言えます。

あとは、ノンバーバルコミュニケーション。身振り手振りやら、音のトーンやら。やろうと思えばテレパスだって!?…は、難しいかもしれませんが、人は相手のことを知ろうと気持ちがちゃんと向かっていれば大概の事は感じ取れるものなんです。

お母さんと生まれたばかりの赤ちゃんの間に言語が存在しますか?
しないでしょう?

でもなぜか、「母」という人には「お腹が空いたのね〜」だの「おしめ代えようね〜」だの赤ちゃんの気持ちが通じます。それは、心から相手のことを思いやる気持ちが働いているからです。
思いやりが働かなければ、たとえ同じ言語を使っていたとしても、相手の言葉は耳を素通りします。

同じ言語を同じように喋れないということ、それを原因として相手を排斥しようという気持ちはお門違いです。例えば日本語を喋れない人が知能的に劣っているとか、性格、気質的に異常であるとか、そういうことは全く言えないのです。育ってきた文化的な違いは国内の家同士であっても色々あるものでしょう(だからこそ嫁姑問題なんてものも勃発するわけだし)。その違い(文化・個性)をどちらが上だと単なる一個人が決めるべきものではありません。例えば留学生で日本に来ている外国人の方は日本語がそこまで上手くなくても、自国に帰れば一端の大学助手であるということだってありますし。

「障害者」とレッテルを貼られた人であっても、様々な優秀な作品を残した方や、困難を乗り越えて自分の体験を踏まえて人を優しく導く立場になった方もいらっしゃいます。
つまり、「障害」という異なる能力を持たされた人達は、その予め限られた能力の中で学ぶために生まれてきた人々なんです。だから、自分の身体の不備を恨むことなく、より生かすためにどうするか精一杯考えてほしいとともに、周りの人にはその可能性を狭めることなく、ちゃんとした環境を与えてほしいと願うのです。

コミュニケーションは愛がないと始まりません。
友愛、恋愛、師弟愛、レベルだって色々です。
愛の伝え方、優しさの伝え方はそれこそ数限りなくあります。
あなたのやり方で優しい気持ちをできるだけたくさん振りまいてください。
そこに春は訪れますよ。

icon2050.gificon2047.gif