最近は心身に障害を持つ子供が生まれる確率が昔より高くなっているという。
朝からバス停で待っていると、養護学校行きのバスも同じところに止まるのだが、
それに吸い込まれていく子供の数も実際多いような気がする。
高齢出産や環境が原因による生まれつきの原因であったり、不慮の事故によるものであったり、その理由は様々であろうが、その数は子供の総数に比するとやはり多いように感じられる。
先日、養護学校でお世話をしている女性に話を聞くことがあったが、今は障害児自身よりその家族、兄弟へのケアを重視するようになったという。
親がどうしても手のかかってしまうその子に意識を集中してしまうため、普通の子をないがしろにしてしまいがちになるので、普通の子自身が何らかの歪みを持たないようにケアをしようというものである。
教育をやっていると本当に奥が深い。
今、鈴木健二さんの著書を読んでいるのだが、それにも障害児について書かれた項がある。
鈴木さんは障害を持った子供に対して「光を与えなければいけない」と思っていたそうだ。
しかし、そこで携わった先生にこう諭される。
「光を与えなければいけないのではありません。彼ら自身が光なのです。彼らは人を騙したり傷つけようと思いを巡らせる事はありません。我らよりよっぽど正直で、自分の目指す道を一心に追い続ける純粋さを持っています。」(というようなことが書いてあったと思う)と。
そこで彼は自分の接し方が「上から」であった事にはっと気付かされたそうだ。
普通の学校の先生方よりも、そういう学校の先生たちの課題は難しく、かつユニークなものである。
例えば、この子が卒業するまでに一人でお手洗いに行けるようにするにはどうしたらいいかとか、ひらがなを覚えさせるにはどうしたらいいかなど、普通の人にとっては楽な階段を、障害を持った子供にどうやって越えさせるか、一人一人の奥に入り込んで在学中だけでもしっかりと深い関係を拵えるのだ。
うちの他界した祖母もそういった学校の教師をしていたことがあった。
彼女はどうやって声を出す方法を教えたらいいかと試行錯誤し、発音しながら咽喉に触らせ、振動の感覚を味わわせたり、場合によっては口の中に手を入れさせて、舌の動きをじかに触らせて教えたりもしたそうだ。
結果、雑菌が入り咽喉の手術をすることにもなったが、それでも子供達がしたいように自らの探索を許したという。
「学校教育は死んだ」という人もいる。
しかし、私が知っている限り、普通学校でも特殊学校でもかなりの方が熱心に今も子供達に働きかけている。
十羽一絡げにそう言いのけるのはあまりにも短絡的ではなかろうか。
いろんな子供がいる。
いろんな可能性がある。
親の世代となる私達は、たとえ学校教育に携わるものでなくても、その子らのために何が出来るのか。
たまにはそういうことを考えてみるのも悪くないだろう。 |