「我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)」という言葉を残したのはルネ・デカルト(Rene Descartes 1596年3月31日生まれ)。
これは自著「方法序説」の中で提唱した命題であり、誰もが一度は耳にしたことがあるかもしれない言葉です。
「我思う」→「存在する」
思考の体系というのはすなわちその人らしさ、エゴの現れ。
エゴを表現することが、そこに存在する(自分を生きる)ということなのでしょうか。
スピリチュアリスト達はよく集合無意識や大いなる知識に繋がることを勧めます。
エゴを捨て大いなるものと繋がることで、真理が見え物事がスムーズに進むと。
それがハイヤーセルフを活用するということ、聖なるものに繋がるということであると。
さて、そういったものとは全く別の個々人の個々人らしさ。
自らの意思やエゴというものは、価値のないものなのでしょうか。
どちらか一方だけが正しく、もう一方は必要のないものなのでしょうか。
そうではありません、決してそうではありません。
エゴも真理も同時に存在して働いてこそ、人はより進化した存在に近づくことができます。
上昇していくことができるのです。
ただ一つ必要なことがあるとすれば、何らかの意思決定の際、その決断が愛に満ちたものであるかを一瞬でもいいから心に問い掛けるべきだということでしょう。
「我思う、ゆえに我あり」
それは一つの真理であり、全ての思考の始まりなのです。
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上の内容について、「もう少しわかりやすい説明を」とのことなので、
車の運転に例えてみることにします。
思考(エゴ)はいわばアクセルを踏むこと、そのための行動エネルギーです。
想いが弱ければそれは緩々なスタートになるし、想いが強すぎればそれは事故に繋がるほどの瞬発力を持つこともある。
物事を動かすためのパワーの強さをここで測ることができます。
そして、精神状態がそのまま車のチューンナップそのもの。
車の性能自体もその調整具合に大きく左右されます。
三位一体論に照らし合わせれば、このBODYがすなわち肉体を意味しますね。
ハイヤーセルフや大いなるものからのメッセージは、
運転中にラジオやカーナビから流れてくる交通情報のようなもの。
どこが混んでいるか、通り易いか、そういう情報を与えてくれこそすれ、
必ずしもそれに従わなければならないというわけではありません。
さて、この車を運転しているのは、他ならないあなた自身です。
今あなたはご自分でハンドルを握っていますか?
それとも乗り込んできた他の誰かに運転をしてもらっていますか?
もし、誰かが運転をしてくれている場合には、丁重にお断りして、
ご自分でしっかりとハンドルを握りなおしてくださいね。
どうぞ、自分らしく快適なドライブをお楽しみください☆
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すなわちですね、今回伝えたかったのは唯一つ。
「誰々から霊的なメッセージを受け取った」からといって、そのメッセージを受け取った人があなたよりも優れているという証明にはならないし、そのメッセージ自体に過ちがないとは限りません。
…というか、あえて過ちを伝える人もいるし。
だから、自分自身のことは自分で判断するということを、必ずその行動の前に行ってほしいのです。
どういう決断を下すにせよ、その方がきっと後悔しませんから(^▽^)
あと、一口に「エゴ」と言っても、その底辺は人それぞれだということ。
エゴを頭から否定する人は、その広さ、深さを知らないのです。
人間にとってそれがもし必要のないものであるならば、完璧な計算で作られたこの世界に「エゴ」そのものが存在するでしょうか?
ちょっとだけ、考えてみてほしいところです。 |