松永末光さん(写真下中)は大正14年3月15日、赤井川(木山川支流)上流の上益城郡益城町袴野(写真下左)で生まれている。平成10年7月、娘さんの勧めもあって、阿蘇郡西原村桑鶴に家を新築移転した。
松永さんは、17、18歳のころから袴野で炭焼きの仕事をしてきた。今でこそ袴野は11軒に減ったが、最盛期には24軒あり、ほとんどが炭焼きを手がけていたという。
松永さんが炭窯を築いていたのは、袴野から赤井川沿いに下った川内田(益城町、写真下右)財産区の雑木山である。財産区の雑木を買い、小屋がけして炭を焼いていた。
そのころは、炭窯に一度火を入れると炭俵20俵ほどとれたという。1俵には10s入ったというから、およそ200sである。「出稼ぎに行くより、炭を焼いていたほうが稼ぎがよかった」(松永さん)という。炭は、主に当時の福田村(現益城町平田)の坂本商店に納めていた。また、木山(益城町)にも炭を扱う商店が何軒かあり、多い時は月100俵ほど出荷していた。
松永さんは炭俵も自分で作っていた。炭俵の材料は、大矢(隣接する御船町浅ノ藪集落の上)に自生するカヤ。現地まで登り、背負って持ち帰っていた。そして、夜なべ仕事で角俵や丸俵を作っていた。きれいに焼けた炭は角俵、くず炭は丸俵に詰め、牛の背にくくりつけて麓まで運んでいた。
また、袴野に多いタケノコも牛の背で運んでいた。袴野は山の斜面に開けた集落。棚田も少なく、現金収入を得るために、タケノコも出荷している。
末光さんの妻ナカエさんは、昭和2年12月20日の生まれ。西原村灰床の出身である。灰床と袴野とは、峠越えの山道を挟んで隣り同志の集落。「灰床」という地名も、実は炭焼きと関連深い名称である。
事実、ナカエさんの記憶では、かつては灰床でも盛んに炭を焼いていた。灰床の炭は、麓の西原村小野を経て、河原地区まで運ばれていた。
また、以前は川内田の人々も、リヤカーに薪を積み、木山はもちろん、遠く熊本市内まで売りに行っていた。
このように、昭和30年代までは、袴野や灰床、そして袴野に隣接した間所(上益城郡御船町)、木戸屋(同)など、熊本市に近い山間の集落では、盛んに炭焼きが行われていたのである。
これらの地区は、石油がエネルギー源として浸透するまでは、平坦地への薪・炭の重要な供給地であったことがうかがえる。
五ヶ瀬町三ヶ所には、木地師の末裔とされる小椋家がある。小椋家は、もともと三ヶ所内の口で木地師の仕事を始めたが、その後、内の口を離れ、坂狩と長迫に定住している。
うち、坂狩には小椋定一氏所蔵の「小椋家木地師古文書」があり、その写しが五ヶ瀬町「森の恵み資料館」に展示されている。
それには、「江州筒井公文所、天正十一年(一五八三)六月」の日付と豊臣秀吉の重臣「丹波五郎左衛門長秀」の銘が記されている。筒井公文所は、全国の木地師職総支配所であり、「小椋家木地師古文書」は「日本全国中の轆轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す」という許可状である。
一方、長迫には、坂狩小椋家とは別に木地師の技術を伝える小椋家があり、戦後も小椋岩三郎さんが盆などを作っていた。
その岩三郎さんが使っていた道具が、「森の恵み資料館」に保存されている。それぞれの道具の役割は、次の通りである。
@ブンギリ 玉切りした材料から木取りするためのコンパス。(下左写真)
Aホリコ 材料を粗彫りする。材料をはつる。(中右写真)
Bチョウナ 材料の仕上げに使う。盆の足を削り出す。(中左写真)
Cカナブチ 手引きロクロに打ち込んだ粗取りした材料を回しながら、材料にあてて削る。(上写真)
Dマエビキ カナブチをかけた後、さらに手引きロクロで仕上げる時に使う。(下中写真)
ところが、長迫では地元の小椋家とは別に、戦争中に椎葉村から木地師の人がやって来ていたという。
長迫では、椎葉の木地師が「買ってくれ」とシオジのソバ練り鉢(現物は「森の恵み資料館」に現存、下右写真)を持ってきたため、鉢に山盛りのソバの実と練り鉢を交換している。おそらく椎葉の木地師も、そのころを境に山中から麓へと生活の拠点を移したか、木地師の仕事から離れた可能性がある。
長迫の小椋岩三郎さんや椎葉の木地師の例をみるように、九州脊梁山地で活動していた木地師たちは、昭和10年代から20年代にかけて、「漂泊」から「定住」へと移っていったと考えられる。
宮崎県五ヶ瀬町三ヵ所の長迫(ながさこ)には、木地師の子孫にあたる小椋家があり、当主康尋さんの祖父岩三郎さんが実際に使っていた手引きロクロが現存している。(写真下左、『里山通信29号』の「里山藪山無名峰」で一部解説)
同家には、30年前テレビ放映された木地師の盆づくり工程がビデオで残されている。当時元気だったシモさん(岩三郎さんの奥さん)と幸四郎さん(岩三郎さんの息子さん)が、木地師の仕事を再現したものである。
盆づくりの工程は、おおよそ次のようなものである。
岩三郎さん夫妻の仕事は、山(山床)で行う工程と、麓(家床)での仕事に分けられる。
かつての長迫周辺は、戸根川の谷を中心にシオジ、ブナ、ケヤキ、ヤマザクラなどが豊富で、岩三郎さんとシモさんは山中に小屋がけして、材料を切り出していた。
山床では切り出した丸太を玉切りし、鉄製の大鉈で縦に割る。割った材料は「ブンギリ」と呼ぶ木製のコンパスを使って、木取りを行う。木取りの善し悪しが製品の質を左右するという。
その後は、木取りにあわせて鉈で丸く削っていく。これを「クロケズリ」と呼んでいる。さらに、「ホリコ」を使って「アラボリ」する。この時は、材料を足で押さえ、少しずつ回しながら余分な部分を削る。それが済むと、「チョウナ」で盆の内側を削る。
「クロケズリ」や「アラボリ」は女性の仕事で、「山床」での作業となる。大まかに削った材料は「メゴ」に背負って麓の家に持ち帰る。重い荷を背負って麓まで下るのも重労働であった。
家床では、仕上げ工程を行う。「チョウナ」でていねいに削り、手引き「ロクロ」の歯に材料を打ち込む。この時、「ロクロ」の軸が、材料の中心に来るように調整するのが難しい。
「ロクロ」がけでは、シモさんがひもを引き、岩三郎さんが「ナカブチ」で削る。最後に「マエビキ」で表面を仕上げ、ロクロからはずす。その後「チョウナ」を使って、裏側に4本の足を削り出す。
仕上がった盆には、炭の粉を混ぜた柿渋を七回塗る。さらに外側に黒漆、内側に赤漆を塗って完成である。製品は、主に馬見原(現熊本県山都町)に出荷していたという。
現在、康尋さんの手元には、2人が作ったシオジの盆(写真下中)が2枚残されている。「矢部盆」と呼ばれることから、熊本県矢部地方で使われていたタイプではないかとされている。
なお、周辺図からも、長迫(写真下右)は産物の集積中継地であった馬見原(山都町)、三田井(高千穂町)、赤谷(五ヶ瀬町)、鞍岡(同)のほか、七ツ山(諸塚村)、財木(椎葉村)などの隣接した山村と、峠を通じて人や情報、物資のやりとりのできる好位置にあることがわかる。
原町(旧砥用町中心地・現美里町)早楠(はやくす)と五家荘を結ぶ二本杉越えの山道については、まだ解明されていない部分がある。
早楠から二本杉までは、戦争中に下津留(旧砥用町・現美里町)から七郎次(しちろうじ)まで馬車道が設けられた。馬車道の開削は、戦争で船舶材の需要が増え、七郎次官山や五家荘から木材を切り出すためのものであった。また、二本杉から七郎次までは索道が設けられていた。
五家荘で切り出された木材は、二本杉から七郎次まで索道で下ろされ、そこから馬車に積んで原町まで運ばれていた。当時、山仕事では、朝鮮半島出身の人々が数多く働いていたという。
そのころ、五家荘から原町に至る駄賃付けの道は、現在の国道445号とは、違うルートをたどっていたらしい。現在の国道は、津留川左岸の急斜面を山肌に沿うように登っている。
ところが、原町や中畑(旧砥用町早楠、写真下中・右)で聞いた話では、戦前・戦中期に五家荘に入るには、中畑の「おたっちょさん」(早楠神社、写真下左)から登り、直接黒原(五家荘葉木)に至っていたという。そして、二本杉へは、黒原から雁俣山南側を回り込むことでたどり着いていた。
かつて、五家荘からの駄賃付けの人馬は、炭やゲタの材料の山桐を積んで二本杉から早楠神社を経由して原町に下っていた。翌朝は、味噌・米・醤油・酒などを馬の背に積んで黒原・二本杉に向かった。
二本杉からは、大金峰・小金峰の稜線を利用して仁田尾や椎原に向かうとともに、朝日(わさび)峠を経由して仁田尾の西岩や、釈迦院にもつながっていた。また、黒原からは、稜線伝いに向霧立越(むこうきりたちこえ)に接続し、遠く椎葉荘まで行くルートがあった。
原町の80歳代の男性は「原町から一の谷を朝日峠まで登り、釈迦院にお参りに行った経験がある」と語った。また、戦前の小学校時代には「原町から雁俣山まで日帰りで遠足に行っていた」という。その時も「おたっちょさん」から黒原に出てから雁俣山に登っている。
また、早楠の70歳代の男性は「4月の花祭りの日には、下津留から朝日峠への山道に上がり、そこから釈迦院に行っていた」ともいう。
ところが、明治33年の陸軍省地図には、「おたっちょさん」から黒原への山道は記載されていない。二本杉から早楠へは、現在の国道に近いルートを下っている。どうやら、二本杉〜原町の駄賃付けの山道も、時代によってルートが変わっていったと考えられるのである。
明治10年(1877)の西南戦争では、官軍に敗れた西郷隆盛一行が、肥後から日向国鞍岡を経由し、椎葉を抜けて薩摩に戻ったとされる。ただ、そのルートについては諸説あるようだ。
そのうち肥後では、小峯村(旧清和村、現上益城郡山都町)栗藤(くりふじ)から、一の瀬越の峠道を越え、鞍岡(宮崎県五ヶ瀬町)に出たという言い伝えが残っている。
西郷一行は、浜町(旧矢部町、現上益城郡山都町)から、男成村(同)を経由して、当時阿蘇に属していた小峯村に入る。そして、緑川上流の栗藤から日向国境への山道を登り、黒峰南側の一ノ瀬越から、鞍岡に下ったとされる。
さらに、西郷らは、鞍岡から五ヶ瀬川沿いに本屋敷まで登り、ここから九州脊梁の尾根を越えて椎葉荘に入った。
問題なのは、本屋敷から先のルートである。2つのルートが考えられる。
1つは本屋敷から波帰(はき)集落に登り、ここから霧立越(きりたちごえ)の尾根道を、椎葉荘に向かったケースである。
もう1つは、本屋敷から胡摩山越(ごまやまごえ)の峠道に入り、国見(くるみ)峠を越え、椎葉村胡摩山から十根川沿いに南下したという説である。
霧立越が整備されているのに対し、胡摩山越の山道は、一部を除いて廃道となっている。その胡摩山越の山道を国見峠まで踏査してみた。
明治期の陸軍測量部の地図には、本屋敷から胡摩山越の山道が記載されている。それによると、一部は現在の町道や作業林道と重なる部分がある。ただし、ヤマメ養殖場から登る町道が開通したおかげで、本屋敷から登り始める部分は、ほとんど使われていないようだ。
町道は、ヤマメ養殖場から財木峠に上がり、椎葉村財木に下るが、峠の手前から、かつての胡摩山越の山道が作業林道として分岐し、整備利用されている。町道から分かれた作業林道はしばらく先で終わるが、その先ではかつての胡摩山越の山道(写真上左)が健在である。
胡摩山越の山道は、尾根西側を等高線に沿って南下し、1240mピーク南側で尾根を東側に越える。ここが、かつての国見峠(写真上中)である。ただ残念なことに、かつての胡摩山越の山道が歩けるのは国見峠まで。峠から先、胡摩山まではスズタケなどに覆われている。
国見峠には、割れた甕(写真上右)やガラス瓶など、駄賃付け(馬の背に荷物を積んで山道を行き来する運搬業者)の痕跡が残っていた。
※胡摩山越・国見峠のルートについては、「里山藪山無名峰」28号の地図(半蔵山と胡摩山越)を参照。
宮崎県五ヶ瀬町三ヵ所(さんがしょ)には、4軒の小椋(おぐら)姓が残っている。2軒は坂狩集落、2軒は長迫集落である。
小椋姓は、惟喬(これたか)親王を始祖とし、近江国(現在の滋賀県)蛭谷村・君ケ畑村を本拠地とする木地師の末裔とされる。由緒ある苗字である。
うち、三ヵ所小椋家は、蛭谷村を本拠地とする筒井公文所支配下の木地師系統とされている。坂狩には現在も「小椋酒店」の屋号を掲げる小椋家があり、すぐ近くの本家では、惟喬親王像や古文書を守り伝えているという。
その「小椋酒店」を訪ね、三ヵ所の小椋家のことを尋ねてみた。同家によると、小椋家が五ヶ瀬に移り住んだのは、江戸期のこと。現当主の3代前だという。江戸時代に四国愛媛から日向延岡に渡り、現在の内の口で木地師の仕事をはじめている。
小椋氏が内の口に渡って来たのは、近くの二上山(標高1080m)のトチ、ブナ、シオジ、ケヤキを求めてのことである。製品は、主に馬見原(旧蘇陽町)に出荷していたとされる。
その後、小椋氏は内の口から離れ、坂狩と長迫へと移転定住している。戦前のことである。
現在の内の口集落には小椋姓はなく、36軒のうち32軒が甲斐姓となっている。そのせいであろうか、内の口には、木地師にまつわる神像等は残されてはいないようだ。
内の口の集落入口には、大師堂があり、内部には10体の神像・仏像が安置されている。うち2体は、「明治十四年二月」の日付が残る八幡神社像と愛宕正官像(写真下中)。あとは、馬頭観音像と弘法大師像である。
また、集落中央の高台に、金比羅宮があるが、これも木地師とは縁のない弘法大師像が祀られているだけである。
だが、三ヵ所小椋家が祀る山の神が、二上山8合目に残されていた。内の口から、押方・三田井に抜ける峠・杉が越に登ると、目の前が二上山男岳(二上山は男岳と女岳に分かれる)である。
男岳中腹には、三ヵ所神社奥宮(写真下左)があり、鉄製の階段が設けられている。奥宮からさらに上がると、二上山稲荷神社、甲斐有雄翁道標とともに、二上山山神社(写真下右)が祀られている。甲斐有雄翁道標への山道から分かれて、鉄製の階段を下ると、岩壁下に二上山山神社の木造の祠がある。祭神は、大山祗神である。
なお、五ヶ瀬川上流域では、三ヵ所小椋家と別系統の木地師が鞍岡・本屋敷・国見峠にかけて活動していたとされる。南九州での木地師は、五ヶ瀬川沿いに展開していった可能性が強いのではなかろうか。
御船町田代地区の各集落では、小正月にあたる毎年1月15日前後に「どんどや」が行われる。吉無田での「どんどや」の手順について、簡単にまとめてみたい。
「どんどや」は、小正月に正月の松飾りや昨年の注連縄(しめなわ)などを集めて、竹を組んだ櫓とともに燃やす行事である。「どんどや」の火にあたり、残り火で正月の鏡餅を焼いて食べれば、1年間健康で過ごせるとされる。
熊本では、一般的に「どんどや」と言っているが、全国的には「左義長」「どんど焼き」「どんど」など、さまざまな呼び方があるらしい。
里山通信社のある水源地区は、九十九折(つづら)、土場(どば)、吉無田(よしむた)の3地区に分かれているため、毎年それぞれの地区で、都合のよい日に実施している。吉無田では、今年は1月13日に「どんどや」が行われた。
この日は、例年どおり朝八時半に山川家の田んぼに、関係者が集合した。
まず、近くにある泉田さん(土場)の竹林で、チェーソーで孟宗竹を切り倒し、田んぼに運び込む。毎年、50本ほどを準備している。(写真上左)
孟宗竹は、幹の部分と先端に近い枝葉の部分とを切り離す。集めた孟宗竹のなかから太い竹を3本選び、櫓の柱とする。3本の先端部分を太い針金でしばり固定してから、大人数人がかりで倒れないように立てる。この時、柱の根元の部分に穴を掘って立てると、倒れにくい。
柱となる3本が立ち上がると、間に孟宗竹の枝葉をつっこむ。その周囲から、竹の幹の部分を立てかけたり、つっこんだりして、燃え床を作る。また、何本かの孟宗竹は、そのまま周りに立てかける。こ櫓の作り方で次第で、早く倒れたり、うまく燃え上がらなかったりする。(写真上中)
櫓が完成すると、注連縄や松飾りを下から投げ上げて、なるべく高い地点にひっかける。
同時に、孟宗竹を鉈で削り鏡餅を挟み込んで焼くための道具を用意する。また、男性陣が櫓の準備をしている間、女性陣はバーベキューやカッポ酒の用意をしておく。
「どんどや」に点火するのは、午後1時ごろ。例年、小雪がちらついたり、みぞれが降ったりするが、今年はまずまずの天候であった。うまく燃え上がるかと見えた「どんどや」だったが、一部の枝葉だけがさっさと燃えてしまい、櫓全体にうまく火が回らなかった。燃え残った枝葉を抜き出して、うまく燃え上がるような作業が必要となった。
いったん燃え上がると、あとは安心。バーベキュー用に竹炭を掻き出したり、鏡餅用やカッポ酒用の竹を、周りに突き立てたりして、鎮火するのを待つ(写真上右)。その間は、カッポ酒を飲みながら、焼き肉をつまむということになる。
なお、鏡餅を焼いた竹は大切に持ち帰って、玄関横に立てかけておく。魔よけになるとされている。
縄綯(な)いは、かつての農山村では、だれでもができる手仕事であったはずである。
ところが、最近はどの農山村でも、縄綯いができる人が少なくなった。農家がほとんど兼業農家となり、機械化が進み、手仕事ができなくなった。ましてや、以前のように冬場に夜なべして縄を綯うということもなくなった。
里山通信社のある人口30人弱の水源地区でも、まともに縄を綯える人は、わずか4人ほどになってしまった。最も若い人でも50歳代後半。70歳代の人が中心である。
水源地区には、天神堂、薬師堂(現在の九十九折公民館)、山の神様、天宮様、水神様があり、合わせて6本の注連縄(しめなわ)が必要である。
注連縄の場合は、もち米のワラを使い、ていねいに綯うことになる。もちワラを使うのは、稲ワラに比べてやわらかく、仕上がりがきれいなためである。毎年、12月初旬の天神祭りの日には、すべて新しい注連縄と取り替える。(上写真左)
このほか、水源地区が氏子となっている田代熊野坐神社でも、大注連縄を含めて数本の注連縄が必要となる。地区が神社の請元となった年には、これらの注連縄も用意しなければならない。
では、その縄(あるいは注連縄)は、どうやって手作業で綯うのか。次のような手順で行う。
まず、藁を数本(太さに応じて本数は調整する)取って、根元をそろえる。根元を足の裏でしっかりと抑えてから、2つに分ける。一方の数本を両手の平を使って綯い、残りの片方に重ねるようにして、ねじる。(上写真中)
その片方も同様に手の平でねじり綯い、もう片方のグループと綯い合わせていく。つまり、ねじり綯った2つのグループをお互いにねじり綯うという作業を繰り返す。(文章で説明するのはとても難しい)
私のような初心者は、まずひとつのグループを綯い、それをもうひとつのグループと綯い合わせていく。そして、片方のグループを綯い、組み合わせていく。それらの作業を単独に交互に繰り返していく。ところが、熟練者はふたつのグループを同時に綯い、しかもそれらを同時に綯い合わせるのである。(上写真右)
こうして綯っていくわけだが、長く伸ばすためには、それぞれのグループを綯いながら、途中で藁を足していくことになる。足す本数が多ければ、その部分は太くなる。中太の注連縄などは、こうして太さを調整していくことになる。このようにして田代熊野坐神社鳥居の大注連縄は、今年水源地区で揃えている。
日本人の手先の器用さが、1本の注連縄を綯うことからも実感できる。そんな手仕事の生活文化さえも、今では失われようとしている。
里山通信社のある御船町水源地区から八勢川を渡ると、山都町(旧矢部町)下鶴(しもづる)・山中の両集落となる。
山中には、嘉永2年(1849)に築造された石橋「山中橋」がある。石工棟梁は、八代郡種山の宇市。高さ4.1m、長さ6.35m、幅2.2mで、輪石の数58個である。
日向往還は、山中集落南側の長谷地区を東西に横断していた。そのかつての幹線道路と八勢川右岸の集落を結ぶための石橋が「山中橋」であった。日向往還から別れた里道は、八勢川の支流の谷に下り、「山中橋」を渡り、対岸の山中や下鶴に至っていたことになる。
下鶴から見て八勢川本流の対岸が、御船町土場だが、かつてそのすぐ上流には、熊本から大矢野原につながる軍道があった。軍道は、大正時代に開通した木山道路とは別のルートを通っていたらしく、現在の土場山神様の脇で八勢川を渡り、大矢野原に至っていた。
一方、木山道路は、益城町木山から田代西部地区、同東部地区を通り、土場で八勢川を渡り、金内方面に至る馬車道であった。
木山道路も、それ以前の軍道同様に、熊本と大矢野原を結ぶ軍事道路の意味合いが強かったようだ。軍馬などで物資を運ぶために適した道路づくりがされていたと思われる。
「山中橋」は、昭和11年、谷の上流に馬車道が開通したおかげで、それ以降は人の通る里道としての利用に限られている。
一方、山中から八勢川右岸の御船町上野・田代地区に至るには、下鶴に出るのではなく山中で八勢川本流を渡河し、対岸の三間伏(みつまぶし)集落に登るルートが近い。
かつて、「山中橋」近くには、水車小屋が2つあった。1つは、「山中橋」のすぐ下手で、山中、下鶴、長谷など八勢川左岸の集落で利用していた。現在は、水車小屋で暮らしていた人たちの子孫によって、小屋跡に水神様が祀られている。
もう1つの水車小屋は、八勢川沿いの九十九折(つづら)にあったという。こちらは、主に八勢川右岸の集落で利用されていたらしい。
日向往還の北側に展開する各集落とも、多くの御堂が点在している。たとえば、山中には金比羅様、天神様、観音様、妙見様が祀られ、下鶴にも天神様、水神様がある。また、九十九折には天神様、薬師様、山神様などがある。
これらの集落では、明治維新以前から、交通の大動脈であった日向往還を経由して、物資と情報の流入があったのである。
里山通信社のある御船町水源地区土場(どば)集落から八勢川を渡ると、山都町(旧矢部町)下鶴(しもづる)・山中の両集落となる。水源、下鶴、山中とも、行政の中心地である御船や浜町よりも、お互いの結びつきが深い集落であった。町境をはさんで、婚姻関係も頻繁に結ばれてきたことから、下鶴・山中集落の戦前・戦後の状況を聞き取った。その内容を、シリーズで掲載してみたい。
土場と下鶴の間、八勢川を渡る馬車道が開通したのは、大正時代。地元で「木山道路」と呼ぶ県道57号が、益城町木山と旧矢部町中島を結んでいる。その時に、八勢川を渡るアーチ型の石橋「八勢川天神橋」が築かれている。
当時「八勢川天神橋」のすぐ上流には、土場と北川内を結ぶアーチ型石橋の通水橋があった。嘉永井手に亀谷川の水を送るためのもので、江戸期の築造だった可能性が強い。下鶴では「春には通水橋の水もれを防ぐために、石組みにしっくいを塗っていた」という。
残念ながら2つの石橋とも昭和50年の水害で流失している。下鶴の古老はその時の情景を目撃している。「上流から流れてきた流木が通水橋にひっかかり、川の水をせき止めた。石橋は上からの力には強いが、下から水圧で押し上げられて一気に流れてしまった」
八勢川と亀谷川は、「八勢川天神橋」の上で合流、その脇に「カタフチさん」と呼ぶ深い淵があった。現在は河川改修で痕跡さえも残っていないが、川岸には「水神様」が祀られている。
「水神様」のすぐ上に、天神堂がある。お堂には、男女2組の神像が祀られていたが、数年前に女神像だけが盗難に遭った。現在は、男神像の脇に新しい女神像が置かれている。
終戦後、下鶴に近い陸軍大矢野演習場には、アメリカ進駐軍が駐留する。朝鮮戦争当時には、演習場内に滑走路まで設けていた。
下鶴では「朝鮮戦争のころには、旧陸軍が残した大砲の弾を探しに随分通った」という。戦争で鉄や真鍮が高騰したため、近在から多くの人が大砲の弾を拾いに演習場に入っている。
また、昭和27年まで、旧矢部町立中島中学校も、演習場内の兵舎を利用していた。当時は演習場から土場あたりまで、アメリカの兵隊がタバコや赤玉ポートワインを買いに来ていた。
このように、江戸期の嘉永井手開削、大正期の道路開通、朝鮮戦争の特需などが、地域に大きな影響をもたらした。
写真上左は、旧矢部町(現山都町)島木の栃木集落で見つけた石風呂である。栃木の藤本家の入口脇にデンと据えてあったもので、現在は使われていない。
石材は溶結凝灰岩で、阿蘇南外輪山の裾野に多く産出する素材である。阿蘇の溶結凝灰岩は、古墳の石棺として、九州から中国地方まで使用されている。また、緑川流域に多い石橋の材料としても活用された。
溶結凝灰岩の利用が多方面にわたったのは、ある程度柔らかく、しかも粘りがあり加工しやすかったためである。栃木周辺にも溶結凝灰岩は多く、近くには採石場もある。
藤本家の石風呂は、大きな溶結凝灰岩をノミでくり抜いて作ったものである。いまでも、ノミの跡がしっかりと残っている。多分、緑川流域の石橋を築いた肥後の石工集団の手になるものだろう。
湯を沸かす時は、竹の樋を使って山水を引き込み、石風呂の中に縦に据えた鉄筒の中で薪を燃やしていた。同家で聞くと、かつては藤本家だけでなく、集落の人たちも風呂を借りに来ていたという。
栃木のほかには、舞鴫(もうしぎ)集落の上田家にも、庭先に石風呂が残されていた。(写真上中)
上田家のご主人によると「実際に使っていたのは、私が小学3年生のころまで」というから、74〜75年も前のことである。「私の父も、いつからわが家に石風呂があるのか知らなかった」らしい。上田家の石風呂は、江戸期から伝わったものに間違いないようだ。
上田さんの記憶によると「石風呂は半日かけて湯を沸かしていた」という。焚き口は、石風呂の下側面に設けられており、そこに鋳物製の竃を組み込ませていた。湯を沸かす時には、竃に長い丸太をつっこんで火を燃やしていた。丸太の先が燃えて尽きると、丸太を奥に押し込んで、火を絶やさないようにしていた。このように、沸くまでには随分と時間がかかったが、一度沸くと翌日の昼過ぎまで利用できたという。
山都町の通潤橋に隣接する民族資料館にも、館内と屋外に石風呂が一つずつ置かれている(写真上右)。うち、屋内のものは目丸(旧矢部町)から移したものだという。ここの石風呂も、横から鋳物製の焚き口を設けたものである。
ただし、矢部地方でも石風呂に入った経験がある人はほとんどいないようだ。これは、70歳以上の高齢者の何人かに尋ねてみるとわかる。みな同様に「物心ついた時は五右衛門風呂だった」「石風呂を見たことがない」という返事が返ってくる。
旧矢部町での石風呂が、もともとごく一部だけで使われていたものなのか、それとも昔は一般的であったのが、五右衛門風呂の浸透で姿を消したのかは不明である。
熊本においても、白山信仰にかかわる地名や神社はいくつか見られる。大正2年の「内務省神社局神社明細帳」によると、全国には2716社の白山神社があり、うち熊本には11社あるとされている。
釈迦院近く、白山頂上直下にあるのが、白山権現である。同社の名は寛文9年(1669)以前に成立したとされる『肥後國八代郡金海山大恩教寺涌出釈迦院縁起』に出てくる。縁起では、釈迦院の北東隅に伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祭る神社として白山権現の名がある。
熊本市国府4丁目には白山神社(写真上左)がある。熊本で最も知られた白山神社がここであろう。現在は住宅地に囲まれているが、この宮が肥後国の初期国庁域の東南隅にあたると言われている。
熊本市和泉町には赤水白山比盗_社がある。祭神は菊理比盗_、伊佐奈岐神、伊佐奈美神。10月9日が大祭日である。氏子数73戸で、和泉町の赤水、桑鶴、古閑、五町地区の氏神社である。旧西里村の村社。弘仁7年(817)3月、山城国愛宕山白山権現からの勧請という。
阿蘇郡西原村河原にあるのが白山姫神社(写真上中)である。呼び名は、しらやまひめ神社である。全国の白山神社の総本山となっている白山比刀iしらやまひめ)神社(石川県白山市)と同じである。由来は次の通りで、白山比盗_社との関わりが示されている。
『後花園天皇の御代宝徳2年(1450)、肥後守護阿蘇大宮司阿蘇惟村公の勧請により阿蘇家家臣緒方山城守経正(緒方家2代)が、白山信仰総本山である石川県の白山比刀iしらやまひめ)神社から御分霊し、菊理姫命(くくりひめのみこと)を白山姫大神として村内の鎮守神として現在の小野の地に祀ったのが始まり』
これをよると、同社の白山信仰は阿蘇家、阿蘇神社との関わりで肥後の地に勧請されたことになる。阿蘇神社と白山比盗_社とは、どう関わってきたのか。由来に出てくる「小野」は、現在地よりも2qほど南方で、阿蘇南外輪山への河原側登り口にあたる。小野集落から登れば、地蔵峠を経て阿蘇氏の本拠地南郷谷にいたる。
さらに、白山比盗_社を勧請したのが緒方の苗字を名乗っていることから、豊後緒方家、さらには宇佐神社との関わりも否定できない。
もう一つ、白山信仰とつながるのが、白山、白髪岳、白髪山などの山である。熊本の白山には、釈迦院に連なる白山のほか、宇土市の白山がある。宇土市の白山は標高218m。麓の神合町(こうあいちょう)には白山菅原神社(写真上右)がある。
白髪岳には、東陽村(現八代市)北種山の火君伝説の白髪岳、球磨郡上村(現あさぎり町)の名山・白髪岳、五木村の白髪岳などがある。
これらの山がどう白山信仰と関わっているかは不明だが、白山神社の存在から、東国中心の白山信仰が熊本にたどり着いたことは確かである。
『白の民俗学へ』の著者前田速夫氏は、九州の白山信仰は英彦山経由で伝わったと推測しているが、果たしてどうだろうか。
緑川の上流は、九州脊梁の北側を東西に流れている。緑川本流は九州脊梁と平野部を区切り、脊梁から流れ出る支流をいくつも集め、有明海へ向かう。
緑川源流域と九州脊梁からの支流域は、昭和期に入り盛んに森林開発が行われてきた。森林開発と同時に、これらの流域には山仕事を生業(なりわい)とする集落がいくつも誕生したが、その多くが伐採・植林事業の終結とともに除々に姿を消していったのである。
そのいくつかについて、簡単に解説してみたい。
これらの流域で最も知られているのが、内大臣集落である。内大臣川の谷で森林開発が始まったのが大正期のこと。内大臣製品事業所を中心に、小学校分校まである大きな集落であった。
内大臣集落のさらに奥地にも山仕事の人たちが暮らす集落があった。内大臣川の上流には、二本杉集落があった。内大臣川の支流・西内谷にも、トロッコ軌道が延びており、龍の髭集落があった。
内大臣集落の下流、角上(かくあげ)から森林軌道が分岐していたのが、鴨猪川である。ここにも、製品事業所があり、営林署の官舎や人家があった。
森林軌道が角上から鴨猪に向かう途中、尾根沿いにあったのが中尾集落である。また、中尾集落のさらに尾根を登ると大平集落があった。いずれも、内大臣での森林開発が始まる以前からの古い集落である。
山出川源流でも、戦前から森林開発が始まっている。山出川源流の千間(せんげん)は戦後、山仕事の人たちが住むために生まれた集落である。最盛期には16戸を数えたという。
千間集落は、上益城郡甲佐町の林業会社によって設けられたもので、終戦直後から20年間ほど存続する。ここに住む人たちの手で、山出川源流域の国有林が伐採・植林・除伐された。現在の集落跡には、当時の人家の土台が残る程度で、人が住んだ痕跡はほとんど見あたらない。
緑川源流域(大官山)で国有林の開発が始まったのは比較的遅く、戦後になってからとされる。須ノ子(旧清和村)から源流域につながる大官山林道の開削工事が始まり、それに伴って今まで手つかずだった源流域の開発が進んだ。
大官山では、当初、十八の郷(そやのき)に営林署の製品事業所が設けられ、その後、さらに奥地の白岩に事業所が移っている。十八の郷、白岩とも営林署職員や民間業者の宿舎や住宅が建ち並んでいたという。
このほか、戦後になり幕川や柏川、津留川などでも、民有地などでの山林開発が進められた。だが、昭和50年代を境に多くの労働力が都市部に流失し、小田尾(おたお、幕川上流)など古い集落が消滅している。
緑川上流域の本流・各支流の谷は、豊かな森林資源を持つ九州脊梁の一角を占めるものの、熊本平野側に開けるという地理的好条件があった。そのために、木材の搬出が比較的やりやすかったといえる。そのために、森林開発が短期間に集中し、山仕事のための集落が多く誕生したものの、国有林開発が一段落するとともに、ほとんでの集落が消えていった。
あわせて、その周辺で古くからあった集落も、日本の高度経済成長期を境に歴史を閉じるものが多かったのである。
熊本の里山を歩くと、峠とその周辺に悲劇の貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)というべき物語が残されているのに気がついた。
『大辞泉』では、貴種流離譚のことを「説話の類型の一つ。若い神や貴人が漂泊しながら試練を克服して、神となったり尊い地位を得たりするもの。大国主命や日本武尊の説話など」としている。
一方、熊本の里山で出会ったのは、お姫様の悲劇の伝説といえるものであった。そのうち、いくつかの事例について簡単に解説したい。
鹿本郡旧鹿北町(現山鹿市)柚木谷と福岡県黒木町を結ぶ古い峠に「姫御前(ひめごぜ)の峠」がある。峠のすぐ下に「姫御所の墓」(写真上左)がある。
「姫御所の墓」は、南北朝時代、九州に遣わされた南朝方の親王を慕って、京から下った姫御前の墓だと伝えられている。京から肥後の地にたどりついた姫は、峠で急に産気づき難産の末、亡くなってしまう。それ以来、「姫御所の墓」は安産の守り神とされる。
里山通信社近くの地蔵峠(上益城郡御船町〜阿蘇郡西原村)近くにも、同様な墓が残されている。御船町と西原村からの峠道は、十文字で合流して地蔵峠に向かう。峠を越えれば南郷谷である。地蔵峠への峠道は、十文字から阿蘇南外輪に向けてゆるやかに登る。地蔵峠の手前、雑木林に「姫御前墓」(写真上中)がある。
こちらの墓の主にいての詳しい伝説は残されていない。ただ、阿蘇家の本拠地であった南郷谷と熊本平野部、菊池とを結ぶ地蔵峠に近いことから、南朝方、阿蘇家、菊池家などとの関わりが想像される。
下益城郡旧砥用町(現宇城市)姫椿には、「乙姫様の墓」(写真上右)がある。姫椿集落から鎌倉山(標高370.9m)に向かう途中の高台に、古めいた石塔が残る。かつては、笠石が乗っていたというが、現在はそれが落ちて、手洗い石の替わりとなっている。「乙姫様の墓」については、地元の古老に聞いても、由来らしいものはわからない。
ただ、上益城郡甲佐町津志田には「乙姫」という地名が残る。津志田には、天正年間(1573〜1592)、阿蘇大宮司阿蘇惟豊の家臣北里小左衛門惟政がいた津志田城があったとされる。また、姫椿のすぐ近くには元暦元年(1184)に阿蘇惟泰が勧請したとされる名越谷阿蘇神社がある。このように、姫椿の「乙姫様の墓」は、阿蘇家との関わりが想像される。
また、姫椿は、上益城と下益城を結ぶ古い峠である打越峠に近い。打越峠は、阿蘇氏の本拠地・浜町(現上益城郡山都町)からの街道が、上益城と下益城に分岐する地点である。
このように、峠近くには、なぜか悲劇の貴種流離譚の名残ともいえる、お姫様の墓が残されているのである。
上田フジ子さんは、大正3年1月10日生まれである。20歳の時に、隣り村の中島村(現在の山都町中島)から、里山通信社のある九十九折(つづら)に嫁いで来た。
かつて九十九折には、竹細工の人が定期的に訪れていた。フジ子さんの記憶では、年に1回「竹の性のよいころ(成長が止まった秋)、竹細工をする人が観音堂に来ていた」という。
九十九折観音堂は、今から10年ほど前に公民館に建て替えられた。それまでは、板張り・縦3間半・横3間ほどのお堂(写真上左)であった。ここには、現在も公民館内に祀られている木造の観世音様があり、その前で竹細工の人が仕事をしていたらしい。
フジ子さんによると「夫婦で来ていた。泊りがけで籠や笊を作っていた。材料は近くにある観音笹で、作った品物は近くで売り歩いていた」。観音笹とは、オカメザサ(写真上右)のことで、現在も九十九折にたくさん自生している。
フジ子さんの知る竹細工の夫婦は、そのころ(60年以上以前)で60歳代。「何も話すこともなかったし、名前も聞かなかった。どこから来ていたかもわからない。1週間以上泊まってから、何も言わずに姿を消していた」。戦前の話である。
もう一人、山川辰雄さんには、戦後に竹細工の人の記憶がある。辰雄さんによると、観音堂に寝泊りしていたのは「わりと若い男性だった」。家族連れではなく、訪れるときは、いつも1人だったらしい。その男性も昭和30年代になると、姿を見せなくなった。
辰雄さんの記憶する竹細工の男性は、フジ子さんの覚えている夫婦とは明らかに別人である。辰雄さんは「どこから来ていたかわからなかったが、近くに生えていた観音笹を使って、籠や茶碗メゴ、洗濯物入れなどを作っていた」という。その点では、フジ子さんの記憶と一致する。
このように、九十九折観音堂には竹細工をする人が定期的に訪れ、寝泊りしながら、近在の村々に竹製品を売り歩いていた。生業からすると「サンカ」とか「箕つくり」、「カンジンサン」などと呼ばれる人たちである。
「サンカ」は、竹細工や川魚漁などをしながら、山野で漂泊生活する人たちのことを指すが、九十九折観音堂に来ていた人たちは、これとはやや違うようでもある。竹細工はするが、観音堂前の八勢川で川魚漁をすることはなかった。農閑期に九州山地の山村から、現金収入を得るため、山付きの村々に出稼ぎに来ていた人々ではないかとも思える。
里山通信社の近く、吉無田水源には昭和63年まで熊本営林局吉無田製品事業所(写真は跡地)があり、多くの人々が暮らしていた。当時のことを、山川辰雄(78歳)さんの記憶をもとにたどってみた。
戦前から吉無田官山の山林開発は盛んであった。山川さんによると、戦前、トロッコレールが吉無田から土場(どば)までつながっていた。
記憶では「トロッコは2台あった。トロッコの長さは9尺(3m)だが、丸太はそれより長いものを3本積んでいた。下る時は、木材が前後に揺れとった」という。現在の土場は、伐採木を集める場所「土場」が、そのまま地名となった例である。
戦前から戦中にかけて、吉無田官山で切り出されたスギ、ヒノキは、事業所まで木馬(きんま)などを使って運びおろされた。そこからは、トロッコに乗せられ、4qほど下流の土場まで運ばれた。さらに土場からは、馬車に積み替えられ、熊本市内の木材市場に持ち込まれていた。
「昔は大径木がたくさんあった。トロッコで土場におろした材は、その夜のうちに馬車に積み替えておき、翌朝3時ごろから熊本へ下った。馬車は10台ぐらいはあった」。土場から下の三間伏(みつまぶし)集落までには登り坂もあり、そこでは「応援の馬を用意して引き上げていた」という。
戦後、トロッコや馬車に代わりトラックが使われるようになった。「事業所にはトラックが2台あり、吉無田から熊本まで材を運んだ。銘木が出れば、福岡の市場まで運んだ」という。
最盛期、吉無田水源の周辺には40戸以上の住宅が立ち並び、事業所事務所のほか売店や大きな集会場があった。当時、近くの九十九折(つづら)集落は、麓の上田代地区に属していたが、人口の多い吉無田と一緒になり水源地区として独立している。
山川さんは「事業所にいた営林署の主任がそうしたんじゃ」という。それほど当時の吉無田はにぎやかで、営林署の力も大きかった。
吉無田で働く人には家族連れも多かった、吉無田地区だけで小中学生が40名もいた。ただ、小学校(田代東部小)も中学校(七滝中)も通学には遠すぎた。そのため、土場から3qほど下った三間伏に児童生徒のための合宿所が設けられていた。
吉無田の子供たちは、月曜日から金曜日までは合宿所で寝泊りして学校に通った。親元にかえるのは土曜日の午後から。八勢川沿いのジャリ道を歩いて吉無田まで帰った。そして、日曜日の午後には、再び合宿所に戻る生活であった。
当時、吉無田官山で働いていたのは、営林署や山仕事の人だけでなく、トロッコ運転手、木馬引き、馬車引き、樽丸職人などであった。それらの人々もすでにチリヂリとなり、地元に残っている人はごくわずかとなった。
旧清和村(現山都町)栗藤(くりふじ)の奈須昇から、緑川上流域の暮らしについて話をうかがったことがある。
栗藤は、緑川上流右岸、黒峰(標高1283m)中腹にある。標高は630m。11軒のうち10軒が奈須姓である。奈須という苗字からもわかるように、椎葉から移り住んだ人々の村とされる。
これら栗藤、尾ケ分、赤木、舞岳など、緑川上流右岸の村々とつながりが深かったのが、県境を越えた鞍岡(現宮崎県五ヶ瀬町)であった。奈須さんの話でも、戦後しばらくまで、これらの集落では、盆や正月などのまとまった買い物は鞍岡に行っていたという。浜町(現山都町)に出るよりも、鞍岡の方がはるかに近かったのである。
奈須さんたちが、鞍岡に出かける時に通ったのが、一の瀬越である。一の瀬越は、黒峰の南側鞍部を越える峠(写真)である。標高は1150mほど。栗藤から谷間を一気に登ると、2時間ほどで峠に上がる。峠を下ると、一の瀬集落を経て鞍岡の町に直接出ることができる。栗藤から鞍岡までは、片道3時間とされていた。
その一の瀬越を、西南戦争末期、可愛岳(現延岡市)の戦いで敗退した西郷隆盛が、わずかの供と越えている。西郷一行は緑川側から栗藤に入り、一の瀬越を抜け鞍岡に向かった。
すでに、馬見原(現山都町)は、官軍の監視下に置かれていたためであろう。当時、奈須さんの祖父らも、一行の峠越えに協力したという。
一の瀬越から鞍岡に下った西郷らは、その後椎葉に向かう。五ヶ瀬町本屋敷の秋本治さんによると、西郷一行が鞍岡から五ヶ瀬川沿いに本屋敷まで来たのは間違いないが、どこから椎葉に入ったのかはっきりしないという。
西郷隆盛らは、胡摩越(国見峠)を越え胡摩山(ごまやま)や財木(たからぎ)に下ったのか。それとも、本屋敷から波帰(はき)を経由し杉が越(日肥峠)に上り、霧立越の尾根道を伝って椎葉に入ったのか…。
いずれにしても、九州脊梁に点在する村々は、それぞれが隔絶されたように見えて、実は峠道や尾根道を使い、国境を越えた交流が活発に行われていたのである。
五家荘樅木の谷口又喜さんから、昭和20年代〜40年代の樅木について、次のような話を聞くことができた。(平成16年7月に樅木の自宅で取材)
谷口さんは、もともとは八代郡坂本村鮎帰の出身。現在、79歳になる。復員後、五家荘樅木の泉第八小学校に教師として赴任する。昭和62年に退職するまで、40年間にわたり泉第八小学校で教師生活を送ってきた。奥さんも樅木出身である。現在もご夫婦で、樅木で暮らしている。
かつて、樅木から川辺川の源流にあたる西の内谷(奥はアンドウゴヤの谷、横才谷などで水上越や横才越に至る)をさかのぼると、いくつかの人家が点在していた。「八八重」(はちはえ)からは谷沿いの山道があり、最初が「一本樫」(いっぽんがし)であった。2軒の人家があった。
その奥が「一枚嵐」(いちまいあらし)で、亀井さん一家が暮らしていた。さらに遡ったところが「真茅畑」(まかやばたけ、『真茅畑』は屋根や道具に利用するためにマカヤを植えたことから付いた)である。ここに住んでいたのが、田中さん一家である。
このうち「真茅畑」だけが、現在も国土地理院地図に地名が残されている。地図上では西の内谷右岸、谷からかなり登った地点となっているが、実際には谷の左岸沿いにあった。
その「真茅畑」から谷を渡り、右岸を登ったところが「ウゲト」である。「ウゲト」には、加藤さん一家が暮らしていた。現在でも、白鳥林道を登ると、林道の右下に「ウゲト」へ下る山道の痕跡をかすかに見ることができる。そのころ、「ウゲト」から泉第八小学校までは、山道を歩いて1時間半かかっていた。
「一枚嵐」の亀井さんと「ウゲト」の加藤さんは、もともと樅木中心地「本村」に住んでいた。昭和2年5月20日、樅木で大火事があり、その時に家が焼けている。当時、西の内谷では盛んにコバ作(焼畑)が行われ、泊まりがけで作業できるように作業小屋があった。大火後、亀井さんと加藤さん一家は、それぞれ「一枚嵐」と「ウゲト」に移り住むことになる。
また、亀井さん、加藤さんと「真茅畑」の田中さんは親戚関係にあり、協力しながら西の内谷沿いでコバ作をしていたらしい。なお、「ウゲト」の加藤さんの娘さんは久連子に嫁いでおり、久連子の正覚寺で偶然お会いすることができた。
このように、九州脊梁山地の奥地に点在する小集落は、本村からコバ作の出小屋に移り住むことで発生したものがある。もちろん、そこには本村の人口増に伴って、余剰人口の奥地への移住という意味合いもあったであろう。
「一人で山に登って不安にならんですか。道に迷ったこともあっでしょ」と、よく聞かれる。「あります」と答えている。
25年前、五家荘樅木の白鳥山(標高1638.8m)山中で迷い、椎葉で1泊したことがある。
当時、五家荘樅木と椎葉村向山を結ぶ峰越林道は、まだ構想段階。熊本・宮崎県境の尾根には、かすかな峠道が残るだけであった。
樅木側のウゲトの谷から白鳥山山頂に登り、山頂南側の御池の湿地帯をぐるりと一回りしたとたん、踏み跡を見失ってしまった。
ようやく、山中を横切る山道を見つけると、深く考えることもなくずんずんと下った。すると、見かけない林道に出た。山仕事の人に「ここはどこですか」と尋ねると「こばやし」だという。熊本弁と違うイントネーションである。
椎葉村向山の小林には、当時2軒の人家があり、そのうちの1軒で帰り道を尋ねた。「どこからきなさった。熊本からか。車はどこに置いている。ウゲトか。熊本から来て、間違ってこっちに下ってくる人が年に2、3人いる。もう夕方で暗くなるから、今夜はうちに泊まっていきなさい。明日の朝から御池を越えれば、昼頃には樅木に下れるから」とのことであった。
一晩、椎葉の人の親切に甘えた。五右衛門風呂に入り、足のマメの治療をしてもらい、ビールをごちそうになった。
地図でわかるように、小林は白鳥越と県分越の椎葉側登り口にあり、すぐ上で2つの峠道が分岐している。白鳥越は椎葉からの御池登山道として利用されているが、県分越は廃れている。
向山日添の浄土真宗称専坊寺の住職が、樅木の檀家を訪ねる時に利用していたのが白鳥越の峠道である。白鳥山に近い樅木のウゲトや真萱畑の檀家に通うには、距離が近く便利だったらしい。住職によると小林の奥には「木地小屋」という地名が残り、スモモやイクリ、ナシの木が植わっていたという。
一方、県分越は、向山から江代(えしろ)の古屋敷に向かう峠道である。向山からは山の産物、古屋敷からは塩や焼酎、日用品を運んでいた。いわゆる駄賃付けの道である。
向山には、このほか、樅木とのメインルートである五家越(椎葉越)、浜町(現上益城郡山都町)と結ぶ向霧立越(肥後道)があった。
翌朝、「この先で山道が分かれる。右に行くと御池に上がるから、くれぐれも間違わないように。以前には、こうやって教えたのに、また間違えて夕方こちらに下って来た人がいた。その人は、結局2晩泊まってから熊本に帰った」と脅かされた。その人は、2日目には県分越の峠道に入り込み、白鳥山や御池あたりを迷い巡ったあげく、再び小林に舞い戻ったらしい。
私の場合、釘を刺された甲斐あって、翌日は無事に樅木に帰ることができた。
旧泉村(現八代市)の柿迫(かきさこ)、栗木(くりぎ)、下岳(しもたけ)など、氷川沿いの村々は、昔から旧小川町(現宇城市)とのつながりが深かった。これらの村々では、塩や日用品などの供給を小川に頼っていた。
砂川沿いに開けた小川と氷川沿いの下岳との間には、標高400〜500mの尾根が横たわっている。人や物資は、この尾根を越えて行き来していた。小川町東海東と下岳宮の崎を結ぶ八丁越(はっちょうごえ)、南海東と下岳白木平を結ぶ新道峠(しんみちとうげ)、そして東小川と下岳本屋敷(もとやしき)を結ぶ榎坂(えのくさか)である。
「子供神楽」で知られる本屋敷は、下岳で最も氷川の下流に位置する。国道沿いの大道から急な自動車道を登ると谷地区。さらに自動車道を登ると、ようやく本屋敷である。
本屋敷は下岳でも最も古くから開けた集落である。かつては10軒の人家があったが、現在は3軒に減った。古い村ということもあって、集落の上には明神様(本屋敷神社)、天神様、薬師様の古い社と祠が残っている。
本屋敷では「村を離れて、郡築や金剛、鏡などの八代海沿いの干拓地へ下った家が多い」という。それでも、戦後しばらくまでは「お釈迦さん(釈迦院)の春祭りには、小川から榎坂を越えてくる人の列がとぎれることがなかった」ほどであった。現在のように、氷川沿いの自動車道が整備されていないころの話である。
地元の古老に天神様と薬師様に案内してもらった。「明神様もそうだったが、かつては天神様も薬師様も、うっそうとした雑木林に囲まれていた。薬師様の前には土俵があって、奉納相撲があった」という。
また、「本屋敷では昭和50年ごろまで、コバ作(焼き畑)をしていた」と話してくれた。ほんの30年ほど前まで、細々ではあったが氷川の中流域でも焼き畑耕作が残っていた。
本屋敷では、毎年11月の第1土曜日の夜、明神様で神楽が舞われる。小川と結ぶ榎坂の峠道は、その明神様の前を通る。榎坂の山道から分かれ、50段ほどの石段を登ると、杉木立に囲まれた古い社が現れる。
明神様から峠道に戻り峠に向かうと、すぐ榎の巨木があり、その根元に古い石の祠が祀られている。さらに登ると、沢沿いに棚田跡があり、スギが植林されている。右斜面は茶畑の跡で、クヌギが植えられていた。
その上のスギ林を抜けると、かきわけるのもままならないほどのカヤ野となり、山道の痕跡がかき消える。カヤ野も、かつては一面の茶畑であったらしいが、今では人の歩いた痕跡すら残されていない。
カヤ野から見える稜線を越えると、東陽村(現八代市)琵琶の古閑(びわのこが)。さらに丘陵地帯を乗り越えると、砂川右岸に出る。そこから砂川沿いに下ると、小川の商店街である。
本屋敷の古老は、「小川で祭りがある日には、榎坂を越えて歩いて遊びに行っていた。片道2時間ほどだった」という。その塩の道も、今では人々の記憶の中にしか残されていないのである。
平成16年6月、岩村一雄・ハルコご夫妻に、五木村の北端・端海野(たんかいの)の暮らしについて聞く機会があった。岩村一雄さん(大正5年2月10日生)とハコルさん(大正10年3月10日生)は、平成15年まで端海野で暮らしていた。現在は、五木村の中心地・頭地で生活している。
最近まで端海野では、岩村さんのほかに白石さん、赤星さん、松永さんの4軒が暮らしていた。うち赤星さんは、最近八代郡鏡町に下っている。白石さん一家も、平成15年に宮崎に移転。現在は、1軒だけ残った松永さんが、冷涼な環境を生かしたキク栽培(切り花)に取り組んでいる。
端海野は、戦後の開拓入植でできた集落である。標高は950〜1000m。開拓団が入植したのは、昭和25年から26年にかけて。当時上益城郡、八代郡などからの端野海開拓団が14〜15戸。熊本市健軍にあった引き揚げ者住宅「青葉住宅」からの栗ケ丘開拓団が10戸。合わせて24〜25戸が入植している。栗ケ丘開拓団は山仕事や百姓仕事に慣れない人たちばかりで、10年ほどして五木村に土地を払い下げ、一斉に山を下っている。
岩村さんは、子別峠の北側・八代郡泉村栗木(現八代市)の古園集落から入植している。「戦時中フィリピンに移民で行ったが、戦後栗木に帰っていた。すぐ近くの端海野で開拓団を募集していることを知り入植した」という。
入植当時の開拓団はコバ作(焼畑)をしていた。当時の端海野は一面の自然林で、山を焼き払った後にソバ、アズキ、タイズなどを作っていた。また、沢水が出るために、後には水田も手がけている。
岩村さんが入植した当時、近くの大通峠(八代郡東陽村と五木村を結ぶ峠)、子別峠(旧泉村栗木と五木村を結ぶ峠)とも、歩いて上り下りするだけの山道であった。岩村さんの実家のある栗木からは、端海野近くの六本杉山(標高1148.5m)に直接上がる山道があり、それを利用していたという。端海野から栗木へは山道を1時間ほど。栗木で買い物し、帰りは荷物を背負い2時間ほどで戻っていた。
一方、五木村役場のある頭地(とうじ)へ下るのは、年に2、3回であった。日帰りはできないので、頭地で一泊する必要があった。しかも、山道さえもろくにないため、麓の五木村小鶴までは木馬道を歩いて下り、頭地に向かった。
端海野に電気が来たのは1970年代である。それまでは、県の補助で各戸とも風力発電で電力をまかなっていた。岩村さんによると「分校の風力発電機は3枚羽根、われわれのは2枚羽根だった」
端海野の子供たちが通った五木西小学校端海野分校も、すでに休校(実質的な閉校)。現在は陶芸家の長尾忠次さん一家が暮らしている。