ミョウガ(ショウガ科)は、日本の自生種ではない。古い時代、大陸からショウガともに伝わったとされる。
ミョウガは畑で栽培されているが、実は山中にも生えている。ただし、深山幽谷には見あたらない。スギを植林した棚田や段々畑の跡に現れることが多いことから、栽培品が野生化したものと考えられている。
上左写真は、美里町幕川渓谷(旧砥用町)のミョウガ群落地である。林道から谷を渡った対岸のスギ植林地の中に、沢の両側を埋め尽くすほど自生している。
スギ林の下で、ミョウガの葉をかき分けると、根元にミョウガ芽(上右写真)が頭を覗かせる。薄暗い林の中では、目が慣れるまではなかなか見つからないが、慣れると「アッここにも、そこにも」という具合に、次から次に見つかる。
ここでのミョウガの旬は、8月末から9月初旬にかけてのごく短い期間。それを過ぎると花芽が立ち上がってくる。すると、パサパサとしておいしくない。地表から頭がやっと出たぐらいの、固くコロリとしたころが最高においしい。
食べ方はいろいろ。素麺や冷や奴の薬味、縦に刻んで削り節と和える、キュウリやショウガとともに塩もみ、天ぷら、ナスと塩もみ、赤梅酢漬け、ミョウガご飯、ぬか漬け、卵とじのほか、シーチキンやタラコと和える方法もある。
吉無田高原一帯には、普段目に触れないものの、思った以上に多くの野生動物が暮らしている。そのうち、私が目撃した哺乳動物は、イノシシ、タヌキ、キツネ、ウサギだが、地元水源地区の人たちの情報によると、キュウシュウジカ、ニホンザルも出没するという。
うち、ニホンザルは、阿蘇南外輪山一帯の群れから別れた離れザルだと考えられる。ただし、秋になると、水源地区の民家の柿の木にサルがやって来る。それも、数匹単位で現れることがあるという。そうなると、これは単独行動の離れザルでなく、阿蘇南外輪山からエサを求めて遠征してきた小グループという見方もできる。
また、キュウシュウジカは、かつて阿蘇南外輪山一帯にはいないとされてきた。地元の人に聞いても「昔はシカはいなかった」という。
だが、ここ数年、秋の交尾期になると、水源地区ではシカの甲高い鳴き声が聞かれるようになった。最近、九州脊梁山地では、シカの個体数が増えたとされるが、その影響が吉無田高原にも現れたのだろうか。
写真は、わが家の雌ネコが、里山通信社の庭で捕獲したヒヨドリ(上左)とモグラ(上右)である。彼女は、このほかにもカヤネズミやスズメも捕えたことがある。最近は、ヤマバトやキジも庭に出没するが、これらの捕獲例はまだない。
ユキノシタの語源が「雪の下」だとは、一般的な解釈らしいが、『植物名の由来』(中村浩著、東京書籍)には、「雪の舌」ではないかと書かれている。
左の写真ではなかなかわかりにくいが、ユキノシタには花弁が5枚あり、上向きの3枚には朱色の斑点がある。下の2枚は白色で大きく、しかも垂れ下がっている。
従来から、葉の上に白い花がたくさん咲くことから「雪の下」としてきたが、そうではなく白い「舌」が垂れ下がっていることから、「雪の舌」だというのが中村浩説である。
ユキノシタの分布は、関東以西から四国・九州で、北海道にはないそうだ。じっとりと湿った林道の縁や岩の上などに生えているのをよく見かける。神社の境内や人家の石垣などにも多い。
ただし、人の来ないような深山幽谷には見あたらない。人の生活空間に隣接したところに姿を現す。そんなことから、もともと日本に自生していたのでなく、古い時代に中国から渡ってきたのではないかとも言われる。
写真のユキノシタは、宮崎県五ヶ瀬町三ヶ所川上流で撮影したもの。奈良津(なろうず)から舟の谷に向かう町道の三差路で見つけた。現地は、三ヶ所と七ッ山を結ぶ小原井峠の麓である。かつて椎葉や七ッ山の山人たちが、三ヶ所と行き来するのに必ずのように通った地点である。
5月末になると、里山通信社の裏側を流れる元禄井手沿いで、サワフタギ(ハイノキ科)の白い花(左写真)が咲き誇る。
サワフタギを漢字で書くと、「沢蓋木」となる。山野の沢沿いに多く、沢の上を覆ってしまうほど茂ることからの命名である。また、別名を「ルリミノウシコロシ」という。秋になると、瑠璃色の小さな実をたくさんつけることから来ているが、ウシコロシの意味はよくわからない。
サワフタギは、北海道から九州まで広く分布する落葉低木である。大きくなると高さ6mにも成長するとされるが、里山通信社の周囲で見かけるものは、最大で4mほど。枝が密に展開し、ややざらついた柔らかな葉を持つが、なによりも、小さな白い花が枝いっぱいに咲くところが、とても美しい。
私も花の美しさに惹かれて、井手の向こう側のヒノキ林から、幼木を数本庭に移植したが、成長が早いのには驚いた。しかも、1mほどの幼木の時期からも花を咲かせてくれる。
ただ、道路沿いのサワフタギの大木に、花の時期になると毎年毛虫が発生して、葉を食い尽くしてしまうのには閉口している。右写真の毛虫がそれだが、マダラ科のシロシタホタルガの幼虫である。放っておくと、新葉が丸裸にされてしまうので、毎朝細い竹の棒でたたき落とすことにしているが、完全に駆除するのは難しい。
ベニヤマタケは、私が住む御船町田代地区では、「アカナバ」と呼んで、昔から食用にしていた。田代地区の奥に広がる吉無田高原や大矢野原(旧矢部町)の原野では、4月に入ると、この「アカナバ」が姿を見せるのである。
ただし「アカナバ」の発生には、いくつかの条件が必要のようだ。1つは野焼きをする原野に発生しやすいこと。そして、日当たりと水はけがよく、風通しも良好なところが好みのようである。
地元の人に聞くと、昔は田代地区の子どもたちは、春になると吉無田高原や八勢川対岸の大矢野原に出かけて、「アカナバ」を採っていたという。
「アカナバ」は小さなキノコなので、集める時には、どうしても枯草や枯れたカヤが混じってしまう。だが、鍋で茹で上げると、熱湯の上にゴミが浮かんで簡単に取り除くことができる。
こうして湯通しした「アカナバ」は、炊き込み御飯の具などで食べられていた。私も食べてみたが、淡泊な味わいながら、うまいキノコである。最近は、「アカナバ」を採る人もほとんどいなくなったが、田代地区の人たちにとっては春を告げる思い出深いキノコである。
写真のベニヤマタケは、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡松ケ平の日当たりのよい山林内で撮影した。
イノシシは、よほどのことがない限り、人間に姿を見せることがないと言われる。私自身、30年間九州脊梁を歩き続けてきたが、イノシシと出くわしたことは3回しかない。それほど、イノシシは用心深い哺乳動物である。
里山通信社の周辺でも、吉無田水源近くの国有林内で一度目撃したことがある。また、すぐ近くの林道でイノシシとバッタリと会ってしまったという話を聞くことがある。
上左写真は、阿蘇南外輪の黒岩で見つけたイノシシの寝床である。あたりには、同様な寝床が2、3ヵ所あった。いずれも、周りのササを切り集めて積み上げている。寝る時には、イノシシはササの中に潜り込むようだ。
上右写真は、里山通信社近くのクヌギ林で発見したイノシシの糞である。すぐ横がクリ林となっている。多分、クリ林はイノシシのエサ場となっているはずである。そう言えば、黒岩のイノシシの寝床の周りにも、ヤマグリの大木が点々と自生していた。
このようにイノシシの痕跡をたどってみると、クリやドングリが、イノシシの大切な食糧だということが実感としてわかるのである。
ヤマコウバシという樹木のことを知ったのは、最近のことである。教えてくれたのは、吉無田高原「風香」のマスター小島国治さんである。
ヤマコウバシは、高さ5mほどの落葉低木。名の由来は、枝を折るとよい香りがすることからついたとされる。
春になると、小さな淡い黄緑の花が咲く。展開し始めた葉の間から、かわいい花が顔をのぞかせる。地味な花である。
そして、秋になると、直径7〜8ミリほどの実をつける。熟すと黒くなる実である。こんなところは、クスノキと同じ雰囲気を持っている。
だが、ヤマコウバシの持ち味は、葉っぱにある。1月、2月の厳冬期にも、ヤマコウバシは葉を散らすことがない。肌色に近い薄茶色の葉が、幹と枝だけになった落葉樹の雑木林の中で、いつまでも残っている。こんな樹木は、ほかには見当たらない。冬枯れの里山では、とても目立つ木なのである。
落葉樹だから、ヤマコウバシの葉もやはり散るのだが、それは春になり、新葉が出てからのことである。それまでは、一人気を吐くといった風情で、自己主張している。
小島さんに教えてもらってから、里山通信社の庭にも2本ほどヤマコウバシを植えてみた。
春から夏、秋になってもまるで目立たなかったヤマコウバシだが、正月を過ぎ、クヌギの葉もほとんど散ってしまった冬の庭では唯一、目立っている。
里山通信社の裏を流れる元禄井手沿いの雑木林には、初冬にサネカズラの赤い実(写真)が見られる。
元禄井手沿いには、ヤマザクラやイヌツゲ、サワフタギ、ツリバナ、コナラ、クヌギ、ハリギリ、ノリウツギ、アキグミなどが生い茂っているが、それらにはアケビやウベが蔓をからませている。
サネカズラ(モクレン科)も同じようにコナラなどに蔓をからませているが、地味な葉のためか、赤い実がなるまでは目立つことがない。
サネカズラは雌雄異株の植物。8月ごろにモクレンに似た小型の花を咲かせるそうだが、まだ花に出会ったことがない。名の由来は、実(サネ)の目立つ蔓(ツル)という意味である。
別名が「ビナンカズラ」である。枝や葉にはネバネバした汁があり、昔は樹皮の皮を水で溶いて整髪料にしたという。「ビナンカズラ」の呼び名は、そこから来ている。
熟した果実は、漢方薬として利用されていた。赤い実を細かくくずして日干しにして乾燥させたもので「南五味子」(なんごみし)と呼ぶ。滋養強壮、鎮咳(ちんがい)などに効用があるとされる。
また、新鮮な葉は、揉んで切り傷に塗布するなど、サネカズラは有用な植物である。
10月末になって、わが家で栽培しているナメコ(写真)がようやく姿を現した。庭の片隅にサクラの丸太10本ほどを寝かせ、菌を打ち込み、半分近く地面に埋め込んだのが、2年近く前のことである。
今年の秋の少雨は、わが家のナメコにも影響大である。写真で見てわかるように、表面にぬめりがない。ナメコが発生したのも、10本のうちたった1本だけ。発生時期も例年よりも遅かった。今年は、山のキノコも不作なのだろうか。
ナメコは、傘が開く前のぬめりが強いころがおいしいというイメージがあるが、傘が開いた成菌もうまい。わが家では、いつも朝のみそ汁の具にして味わっている。
ナメコで思い出すのは、球磨郡山江村でもらったナメコのことである。20年近くも昔のこと。万江川沿いのやくし山(標高九九九m)に登った時である。
長やぶ谷から支尾根を伝って山頂を目指すのに、谷の入口の人家で道を尋ねた。そこのご主人の案内で山頂まで登り、頼まれて帰りに山からクロモジを数10本下ろしたことがあった。そのお礼に、栽培していたナメコを大袋いっぱいもらった。
「開きすぎたものは商品価値がないから、好きなだけ持っていってください」との言葉は、今でも耳にこびりついて忘れられない。再び遭遇できないおいしい思い出である。
吉無田高原の「虹の会」農業体験交流施設(ゲストハウス)の畑に播いたソバが、ようやく結実(写真は10月初旬)した。
ソバは、あらゆる穀物の中で、もっとも生育期間が短い。播種から65日〜70日で収穫できる。また、生産限界地の穀物でもある。他の穀類が育たない標高1500m以上の高冷地でも栽培可能といわれる。
ところで、かつての「コバ」(焼き畑)では、初年作物としてソバが栽培されることが多かった。九州脊梁の山村(五木村、五家荘、椎葉荘、米良荘)では、秋に大木の枝おろしや雑木を伐採し、秋または春に火入れをする「コバ」を行っていた。
牧野洋一さんの『九州地方の山村の変貌』(「地理」1974年7月号)によると、ソバが播種されるのは夏コバが多く、その場合は2年目以降「ヒエ」か「アワ」、「アズキ」か「ダイズ」、「アワ」か「サトイモ」「ダイズ」、「サトイモ」か「トウモロコシ」という輪作をしていた。
また、ソバは厚く播くのがよいとされ、「ソバは猫の足に3粒」(五家荘)や「ソバは天井でとれ」(米良荘)と言われた。牧野洋一さんの論文「南九州山村の焼畑経営(続)」にあった言葉である。
つまり、ソバを播くときは「猫の足跡の広さに3粒播け」。そして、「ソバは厚く播いた方が実が上にそろって結実するので収穫しやすい」との意味である。
ソバは、霜が降りてしまうと実が落ちてしまう。その前には収穫したい。
里山通信社の敷地内にドクツルタケ(テングタケ科、写真)が現れた。初めて目にしたのは、9月8日のこと。道路との境のクヌギの木の根元で発見した。日がたつにつれて本数が増え、最終的には7本ほどが立った。
白さが輝く清楚な姿をしているが、名前の通り毒キノコである。『野外ハンドブック・3 きのこ』(山と渓谷社)には、次のように書かれている。
「夏から秋にかけて、雑木林やブナ林などの広葉樹林内に点々と生えるやや大型の純白のキノコである。誤って食べると10人中7人は死ぬというほど恐ろしいキノコで、日本の毒茸中の横綱である」。なんとも恐ろしい毒キノコである。
別の図鑑では、「食べて10時間から20時間たってから急に激しい腹痛や嘔吐がある」とされている。さらに、「1本以上食べると、病院で適切な処理を行わないと3日以内に死んでしまう」のだという。
とにかく、明治時代以降、日本人の毒キノコ死亡者の半数はドクツルタケによるというから、なかなかの猛者である。ツキヨタケ(キシメジ科)の比ではないのだ。
その後、里山通信社のドクツルタケは、笠を大きく広げた。毎日観察していたが、そのうち茶色く変色し、少しずつ溶けてしまった。最後は無惨な姿を晒した。毒キノコも寿命は短いのである。
山でサルナシの実に出くわしたのは、たった3度である。
最初は、大崩(おおくえ)山系の夏木山(標高1386m)から新百姓山(標高1273m)の縦走路で出会った。20年ほど昔のことである。
当時の夏木山〜新百姓山間は、踏み跡がはっきりせず、スズタケが茂っていた。スズタケをかき分けていた時に、頭上の木にからまっていた。
2度目は、阿蘇南外輪の黒岩(標高1040m)の近く。九州電力送電線の巡視路を伝い、広葉樹の種を拾いながら大矢岳(標高1220m)を目指す途中だった。巡視路脇のブッシュに蔓がからまり、数個の実が成っていた。
写真のサルナシの実は、3度目の出会いの時のもの。球磨郡五木村と水上村の境にある高塚山(標高1508m)に登った帰りである。季節は夏の終わりごろ。舗装された大規模林道を歩いて登山口の白野越(地図では白蔵峠)に戻る時、林道脇で鈴なりのサルナシの実を見つけた。残念ながら時期が早く、まだ十分には熟していなかったので、写真だけ撮った。
サルナシはキウィフルーツやマタタビの仲間である。味はキウィフルーツそっくり。甘酸っぱくておいしい。熟すと果肉の中身も淡緑黄色になる。キウィフルーツ同様に小さい種が入っている。生食のほかに、果実酒やジャム、生ジュースなどの利用法があるそうだが、まだ試したことはない。
写真のサイハイランは、旧矢部町の阿蘇南外輪山で見つけたもの。あたりは落葉広葉樹の森で、近くにはニシノヤマタイミンガサの群落があった。
季節は6月末。スズタケのないゆるやかな斜面は、ヤマタツナミソウなどの背の低い野草で覆われていた。その中にポツンとサイハイランの花が咲いていた。花期にはやや遅かったが、そのせいか、精一杯花が開いていた。
サイハイランは、山地の木陰に生えるラン科の多年草。葉は通常1枚で、エビネに似ているが、やや細長い。葉の長さは30pほど。地中にラッキョウほどの大きさの偽球茎がある。
和名は采配蘭。采配とは、昔の武将が戦いの指揮をとるのに使った采配のことである。
サイハイランは、深山だけでなく、比較的低山でも見かけることがある。ただし、花の時期に出会うことは少なく、1枚葉だけをポツンと見つけるだけだ。群落も作らない。そのせいか、ある程度植物に興味がある人でないと、なかなか気づかないようだ。
初めてサイハイランの花に出会ったのが、旧砥用町の権現山(洞が岳)。登山道の傍らに咲いていた。独特の姿が目に焼き付いた。それ以来、この花の名が忘れられなくなった。
今の時期(6月末)のヤマウドは、すっかり大木になっているはずである。
写真のヤマウドは、吉無田水源から流れる八勢川の支流オダラ谷のヤマウドである。撮影時期は5月末。土場(どば)集落から八勢川にかかる農道の橋を渡り、棚田のどんづまりから、オダラ谷に分け入った。谷に沿ってヤブコギをした時、日当たりのよい斜面に数本立っていたのを見つけた。
ヤマウドは、成長すると高さ1.5mにもなるが、そのころのヤマウドの大木は誰も見向きもしない。ヤマウドが一番うまいのは、根のすぐ上の部分である。
5月中旬になると、ヤマウドの芽が地上に顔を出す。山砂が崩れたような日当たりのよい斜面から、もっこりと頭を出している新芽があれば、その下には白くて太い茎が隠されている。
一般には、そんな白い部分を珍重することになる。削ぎ切りして冷水にさらし、酢味噌やマヨネーズで食べる。ところが、もっとうまいのは、葉が展開を始めたころの新芽である。茎も含めてテンプラにする。個人的には、ダラノメ以上にうまいと思う。
さらに、7月に入ると花芽が上がる。そのテンプラも美味である。このころの茎は、ずいぶん固くなっているが、それでもキンピラにすれば、口いっぱいにヤマウドの香りが広がる。
ヤマウドによく似たのにシシウドがある。同じような環境に自生しているが、こちらは全体的に白っぽく、茎の毛がやわらかい。名の由来は、強剛なのでイノシシ向けのウドという意味である。
図鑑等では「山地や丘陵の林下に生える高さ30〜50pの多年草。花の色から金蘭の和名がついた」とされている。花期は4月〜6月。吉無田では、里山通信社から干無田(ほしむた)に下る町道の脇に一本のキンランが咲いていたが、数年前から姿が見えなくなった。
一方、山歩きの最中では、意外とキンランと出会うことはない。写真のキンランは、西原村の冠ケ岳(標高1154.1m)麓で撮影したもの。昨年の5月初旬、ヤマウドを探して、牧野(ぼくや)の中を谷間まで降りた時であった。あたりは、野焼きの終わったやや黒ずんだ原野。ようやく春草が芽生えはじめたころで、その中にワラビ、ゼンマイ、オオバギボウシ、ツクシシオガマなどが点在していた。
ヤマウドを探して急斜面をずんずん下ると、冠ケ岳中腹から続く沢筋に出た。大岩の続く間に、チョロチョロと山水が流れ、沢に沿ってアセビやコナラ、ミズキなどが茂っていた。沢と原野の境に、数本のキンランが肩を寄せ合うように立っていた。やや花期には早かったのか、つぼみのものが多かったが、それがかえって風情があった。何枚か写真を撮った。
キンランとよく似て花が白いのにギンラン、ササバギンランがあるが、こちらはさらに希少種で、めったに出会えない。
漢字では「三叉」または「三椏」と書く。中国〜ヒマラヤ原産。日本へは室町時代に伝わったとされる。高さ1〜2mになる。
花期は3月から4月にかけて。葉が展開する前に、球形の頭状花序をつけ、その先に30〜50個の黄色の小さな花をつける。名前のとおり、枝が次々に3つに分かれて成長する。
樹皮の繊維を製紙の原料とするために、日本各地で栽培されてきた。主に和紙の原料だが、明治以降は紙幣原料にも利用された。九州山地では、各所でミツマタの栽培が推奨されていた。
写真右のミツマタは、旧矢部町(現山都町)の鴨猪谷の林道脇で咲いていたもの。近くには、かつての矢部営林署鴨猪製品事業所があり、多くの人が住んでいた。このミツマタも、山仕事のために鴨猪谷で暮らしていた人たちが、現金収入の助けとするために栽培していたものらしい。鴨猪谷は、人が住まなくなって40年以上もたつが、長い年月を経て野生化していた。
鴨猪谷だけでなく、旧矢部町(現山都町)内大臣西内谷、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の山中などでも、野生化したミツマタに出会ったことがある。
昨年秋、庭のヤマグリの木に、不思議なものがぶら下がっているのに気が付いた。薄緑色で、形は鉛筆のキャップを大きくしたようなもの。年が明けて、ヤマグリがすっかり葉を落としたあとも、鮮やかな色彩のまま枝にぶら下がっている。
原色の乏しい冬枯れの庭では、なにやら不気味な物質のように思え、いっそのこと、もぎ取って捨ててしまおうかとも思ったが、そのままにしていた。
正体がわかったのは、ごく最近のことである。山と渓谷社『里山生きもの博物記』(荘司たか志著)を見ていて、それがウスタビガの繭だと知った。
ウスタビガは、ヤママユガの仲間で、翅(つばさ)を広げると10pにもおよぶという。写真で見ると、確かにわが家で何度も見かけたことのある大型のガである。夏場に、家の中に入り込んで、灯りの周りをうるさく飛び回っていたことを思い出した。
『里山生きもの博物記』によると「秋から初冬に羽化するので、冬の間まゆの中は空っぽだ。メスは、羽化した直後にやってきたオスと、まゆにつかまりながら交尾し、まゆに直接卵を産みつける」という。
いまも、この原稿を入力しながら、窓を通してウスタビガの繭が目に入る。果たして、いつまでぶら下がっているのか。とことんつきあってみようと思っている。
早春の吉無田高原で真っ先に目につく新緑が、「ふきのとう」である。里山通信社の裏手を流れる元禄井手にも、2月末から姿を現わす。
元禄井手は、上井手と下井手の2つに分かれる。下井手は水漏れの目立った上井手のバイパスとして、戦後設けられた新しい水路である。その下井手は、蜩窯前の町道を下ったところで、道路の下をくぐる。ここから井手に沿った山道が始まる。
井手沿いの山道は、しばらく雑木林とスギ植林地にはさまれて吉無田水源に向かう。するとスギ林が切れ、日だまりが現れる。私が発見した「ふきのとう」のつぼである。
「ふきのとう」は早春を告げる山菜だが、実は年末の12月から採取することができる。日当たりがよく、湿気の残る林道の傍らには、枯れたふきの葉が茶色く変色して残っている。その葉を取り除き、茎の根本を少し掘ると、早春の「ふきのとう」が用意されている。大きさは、親指の先ほど。固い殻に包まれた薄緑の「ふきのとう」が現れる。
山菜としての「ふきのとう」は、まず天ぷら。開き始めたものに薄く衣をつけ、軽く揚げる。ほろ苦さが残り、食べ飽きることがない。そのほか、苦みを楽しむための三杯酢、刻んで汁の実。
試したことはないが、味噌練りもおいしいという。少量の酒を加えてゆるめた味噌に、2、3個の「ふきのとう」を生のままちぎって混ぜるという。野趣豊かな料理である。
もっと変わったところでは、「ふきのとう」の漬け物がある。味噌と酒粕に酒少々で漬け床を作る。そこに、さっと茹で、冷ました「ふきのとう」を漬け込む。数時間後で食べ頃となるという。
雪の多い今年の吉無田では、「ふきのとう」も遅いのだろうか。早春まで、今すこしの辛抱である。
カヤネズミ(萱鼠)は、『大辞泉』(小学館刊)で次のように記載されている。
「ネズミの一種。体長6pくらいで、尾も同じくらい。河原の茅の茂みなどにすむ。夏から冬にかけ、ススキの茎などの地上数10pの所に草で球形の巣を作り、子を育てる。日本では関東以西に分布」
写真は、今年の11月、庭の隅で見つけたカヤネズミの巣である。庭の草刈りは、混合油を燃料にした草刈り機械で年2回行うが、その時必ず球形の巣玉が1つ2つ現れる。
最初は、野鳥の巣かと思っていた。ところが、一昨年、試しに球形の巣を割ってみたところ、中から無毛のネズミの赤ちゃんが現れびっくりした。その時は、ネズミの巣だとわかり、あわててもとのカヤの根元に戻したが、その赤ちゃんはどうなったことか。
それからしばらくして、庭で遊んでいたわが家の猫が、小さなネズミをくわえて戻ってきた。家ネズミに比べるとずいぶん小さく、それが多分カヤネズミだったのだろう。
また、時々、近くの牧野跡に小型の猛禽類が飛来することがある。長時間、電柱のてっぺんで地上を見張っているが、これもカヤネズミをねらったものではないか。
吉無田高原には、イノシシ、タヌキ、キツネ、ニホンザルなどの哺乳類が出没するが、今年からは、キュウシュウジカの鳴き声が聞こえるようになった。「阿蘇南外輪山でもシカが増えている」という情報を裏付けるのではないかと思っている。
イワタケは、昔から仙人の食べ物とされてきた。また、不老長寿の薬だとも言われてきた。キノコでもなければ、草本でもない。コケと同じ地衣類である。
写真は、脊梁山地の扇山(宮崎県椎葉村、標高1661.3m)で見かけたイワタケである。日当たりのよい岩壁にペタリと張り付いた姿は、とても食べられそうにないが、奥山の珍味として昔から珍重されてきた。
主に自生しているのは、標高1000m以上の岩壁である。じめっとしたところよりも、どちらかといえば日当たりと水はけのよい岩壁が好みのようだ。
イワタケの中心には芯があり、そこから岩壁に根を下ろしている。その根を中心に、周りにビラビラの厚紙のようなヒダを広げている。ヒダの表面は灰色だが、裏側は黒色である。乾燥している時は、そのヒダが味付け海苔のようにパリパリしている。無理に岩からはがそうとすると、ポロポロと割れてしまう。雨上がりなど、水分を含んだ時が岩壁からはがしやすい。
イワタケは、大変成長が遅い。写真の大きさになるのに、数10年かかるとされる。もともと稀少な上に成長が遅く、しかも珍味として乱獲されたため、なかなかお目にかかることができない。
これまで、扇山のほか、祖母山系(宮崎県)や大崩山系(同)、内大臣(上益城郡旧矢部町)の馬子岳などで見かけたが、いずれも人の手のとどかない危険な岩壁に自生していた。採取しやすいところでは、あらたか取り尽くされているせいだ。
料理する前には、水で戻してよく洗う。洗うと、黒い汁がいつまでも出てくる。その黒汁がなくなるまで丹念に洗うのがコツだという。その後は、湯がいてから三杯酢などで味付けして食べたり、天ぷらにしたりするという。
私も大崩山系で採取したイワタケを三杯酢で食べてみたが、無味無臭で輪ゴムを食べるようであった。個人的感想では、珍味だが美味ではない。
マムシは、北海道、本州、四国、九州に分布する毒蛇。卵胎生で7〜12匹を産むという。山歩きでは、会いたくない方々である。
熊本では、マムシではなくヒラクチと呼ぶことが多いが、人によってはマヘビとも言う。里山通信社の地元・吉無田では、ヒラクチと呼んでいる。
写真は、昨年夏に五家荘久連子でお会いしたヒラクチである。上福根山(標高1645.3m)から久連子に下った林道で動けなくなっていた。動けないのは体調が悪いせいでなく、カエルを飲み込んだためである。近づくと、目玉だけ動かして、うらめしそうに私を見上げた。
山で7度ヒラクチと出会っている。甲佐岳(甲佐町、標高753.3m)樋口山(宮崎県椎葉村、標高1434.6m)水呑の頭(宮崎県五ヶ瀬町、標高1646.4m)天狗山(宮崎県えびの市、標高940m)阿蘇南外輪山(旧久木野村)城山(旧久木野村、標高839.3m)黒岩谷(旧清和村)腹巻山(宮崎県北郷村、標高577m)である。
甲佐岳では、登山道の真ん中に体長2m近い巨体でどくろを巻いていた。樋口山では、同行のMさんがまたいでいる。水呑の頭では、三角点の石標の上に小さなヒラクチがいた。天狗山の沢では、同行者が踏みつけようとしたし、秋口の阿蘇南外輪山縦走路では数100mの間で3匹と出会っている。
また、城山では草原で同行したFさんがヒラクチの子を捕まえている。春の黒岩谷では、いくつかの岩の上で、それぞれヒラクチが日向ぼっこしていたし、腹巻山ではカジカガエルの鳴き声に誘われて近づいた沢筋で鎌首をもたげていた。
このようにいちいち情景を覚えているのも、いかにヒラクチとの出会いが強烈な印象を残したかと言えそうだ。