脊梁巡礼・里山藪山無名峰

第32回 川辺川から八原岳と桝形山へ(球磨郡五木村)

消えた焼き畑「アカンタ」とシモバシラ群落

 昔の五木村では、林業、炭焼き、焼き畑農業、河川漁業などが主な生業であった。民有林が多く、かつては33人の「旦那衆」と呼ばれる山持ちと、名子と呼ばれた小作人によって集落が形成されていた。
 五木村の中心地・頭地から川辺川沿いの国道を遡ると、すぐに自動車道は右岸に渡る。そして、その先で、九折瀬集落につながる村道が川辺川に下る。村道は、谷底の仮設橋を渡り、八原岳(標高1149.8m)の麓をジグザクに登る。
 製茶工場のある九折瀬を過ぎると、山の傾斜は一段と険しくなる。その急斜面を縫うように、村道は八原集落に向かう。
 八原まで登ると、急斜面が途切れ、ゆるやかな谷間に民家が点在する景色となる。集落の入口には、地元で「お堂」と呼ぶ薬師堂があり、その傍らにはイチョウの大木がある。八原の「旦那」であった吉松家は、そのイチョウ大木の奥である。吉松家で「お堂」のことを聞いた。
 「毎月1日はお堂の掃除をすることになっていたが、勤める人が増えて、今では毎月第1日曜日にするようになった」という。
 かつては、7、8戸もあった八原も、現在は4戸。それでも、毎年6月と10月の祭りには、村人がお堂に集まって酒を飲む行事がとぎれることなく続いているという。だが「昔は、明け方まで飲んでいたが、お年寄りばかりとなって、今は早く終わってしまう」のだという。
 八原まで自動車道が繋がったのは、昭和30年代に入ってから。それまでは、九折瀬から急斜面の山道を歩いて上り下りしていた。だが自動車道開通が契機となり、八原での生活にも大きな変化が訪れることになる。
 つまり、それまでの焼き畑や山仕事中心の暮らしから、勤めに出て現金収入を得る毎日へと生活が変化した。それに伴い、山の生き物や先祖から伝えられた神々相手の暮らしが、徐々に失われていったことがうかがえる。
 五木村でも、日本の高度経済成長の波が押し寄せ、地域共同体が大きく変容したことがわかる。
 かつて、九折瀬から登ってきた山道は、八原集落を抜け、さらに八原岳と桝形山(標高1085m、写真下左)との間を越え、稜線の南側、地元で「アカンタ」と呼ぶ焼き畑地まで延びていた。だが、林道の延伸によって、その山道はすでに痕跡さえも消え去ってしまった。
 八原から林道を上ると、右下に吉松家の分家の屋根が見える。その奥で、林道は、石灰岩の斜面を横切るようになる。林道は、桝形山の山頂が見えるところまで登ると、その先で道路決壊による通行止め。しかたなく、林道をテクテク歩くことにした。
 林道は、八原岳の北側から東側を回り込むようにして南に向かう。それとともに、川辺川対岸の国見山(標高1271m)や五木白髪岳(標高1244.3m)が見え始める。さらに、川辺川上流の保口岳(標高1281.1m)や下梶原川源流域の山々も姿を現わす。
 林道を歩くとシモバシラ(写真下中)が次々と現れ、白い花が風にそよぐ。それに混じって、ヤマヨメナの花がチラホラ。アケボノソウもあるが、こちらはまだ蕾の状態である。
 九月初旬の直射日光を浴びながら、小石の散乱する林道歩きを1時間以上。ようやく、八原岳登り口の林道三差路に到着した。そこからは、スギ、ヒノキの林を15分ほどで八原岳山頂である。山頂一帯は、またもやシモバシラの群落地である。
 山頂からは、桝形山に繋がる稜線を伝う。シモバシラに覆われた尾根には、血のように赤い実を付けたヤマシャクヤクが点々と続いた。  稜線を伝うと、桝形山のテレビ中継所に繋がる作業林道と再び出会う。あたりが、かつて「アカンタ」に向かう山道が、稜線を越えた地点である。
 桝形山山頂は、作業林道終点から尾根に上がり、しばらく登った地点。桝形山の主稜線もシモバシラの大群落。数年前の春に訪れた時には、一面フタリシズカが覆っていた尾根である。
 山頂まで登り「五木村消防防災無線通信施設」の裏側に出ると、「桝形山山頂」の標識があり、眼下には川辺川のうねりと川を取り巻く尾根の眺めが広がる。(写真下右)
 薄曇りの空の下、目を凝らすと、遠く川辺川の流れ下る先には人吉盆地が広がる。そして、その奥、遙か彼方には球磨白髪岳(標高1417m)と霧島連山の山並みがかすかに認められた。
頭地側から見る桝形山 シモバシラの花 桝形山山頂から見る川辺川の谷

■往路 林道交通止め地点(林道を70分)林道三差路(15分)八原岳山頂(稜線を20分)作業林道(25分)桝形山山頂
■復路 桝形山山頂(作業林道を20分)林道三差路(林道を60分)林道交通止め地点

第31回 六峰街道から幻の鏡石明神山(五ヶ瀬町・高千穂町)

未知のスズタケ尾根を1時間半の格闘

 宮崎県五ヶ瀬町三ヶ所(旧三ヶ所村)の地名の由来となったのが、3ヵ所に分けて祀られた祭神鏡石のことだとされる。
 その3つの鏡石は、室野明神山(写真下左、標高947.9m)、廻淵鏡山(標高916.8m)、坂狩中登岳(標高949.2m)山中にあるとされている。では鏡石は3山のどこにあるのか。地元で尋ねても、はっきりとした回答は得られなかった。
 鏡山では「山頂のどこかにあるのでは」、中登岳では「昔、中登嶽神社のあったところ(頂上)では」という具合で、実際には3つの鏡石の所在は不明である。
 10数年前、室野から登った明神山の山中で、不思議な大岩に遭遇したことがあった。ちょうど阿蘇中岳が爆発し、五ヶ瀬方面まで火山灰が降り注いだ時であった。室野集落から農道を歩き、山頂から南西に下る主稜線にとりついた。雑木林の林床にはスズタケが茂り、その葉の上には火山灰がうっすらと積もっていた。
 スズタケをかきわけ、灰だらけになり、ようやく山頂近くの尾根までたどり着くと、スギ林の中に高さ3mほどの岩がポツンとあり、なぜか鉄製の梯子が掛けられていた。ただ、明神山に鏡石が祀られていることを知ったのは、それから随分たってからである。今になって考えれば、あれが鏡石であったのかもしれない。
 再び、明神山に登ったのが、今年8月である。あわよくば、あの鏡石に遭遇できるのではと考えたからである。
 今回は、三ヶ所中村から六峰街道を高千穂町境まで車で登り、町境の尾根を明神山へ向かった。街道筋にはウバユリ、オオバギボウシ(写真下右)、ヒヨドリバナの白花が点々と咲く。六峰街道は二上(ふたがみ)植物群落保存林を横切る手前で、高千穂との町境を越える。
 町境のすぐ先、街道沿いには「明治三十八年十二月」の日付の彫られた石の祠(写真下中)が残る。三ヶ所中村から押方跡取川(現高千穂町)に越える、かつての古い峠道の痕跡である。
 町境の標木からスズタケをかきわけて稜線に這い上がると、スギ・ヒノキ林と雑木林に挟まれたやせた尾根が始まる。
 しばらくは、間伐・枝払いに通った人の踏み跡が続くが、いつの間にかそれも消え、スズタケの茂った尾根には獣道だけが細々と続くようになる。
 8月の蒸し暑い空気が、山全体を「ムッ」とするように包んでいる。初めて歩く未知のルートは、進む先の予想がつかず、単独行では一抹の不安がつきまとう。
 スズタケは、茂ってはいるが、場所によっては突然少なくなったりする。が、決して消えることはない。1本尾根で迷うことはないが、それでも、帰りにはうっかりと入り込んでしまうような支尾根が現れたりする。
 途中、スズタケを敷き詰めたイノシシの寝床が2つ。人間の痕跡と言えば、点々と残された地籍調査の赤い杭だけである。あとは、ただその赤い杭だけを頼りに、スズタケをかき分けて山頂に近づくだけである。
 尾根を進むにつれて、スギ・ヒノキ林は減り、すっかり雑木林に覆われるようになる。雑木の種類も、カエデ、コナラ、ネジキ、イチイガシなどに替わり、リョウブ、アセビ、ミズナラ、ヤマザクラが増えてくる。そのうち、カシの林が現れるが、多くのカシが根元から箒立ちに「ひこばえ」を生やしている。かつて、炭焼きのために切られた痕跡である。
 六峰街道から1時間以上も登った頃だろうか、稜線を横切る山道の跡とぶつかった。すっかりスズタケに覆われてはいるが、人や牛が行き来した踏み立ての痕跡である。かつて、炭焼きの山人たちが炭俵を背負い、麓へと歩いた山道であろうか─。
 そこから、地籍調査の赤杭は、雑木林の急斜面を一気に登るように続く。雑木につかまりながら、じりじりと山肌を這い登る。脂肪をため込んだ腹部が、進もうとする「足を引っ張る」。「ゼエゼエ」と息が切れ、汗がしたたり落ちる。気力も切れかかる。空が急に明るくなり、主稜線にたどりついた。
 頂上一帯は、航空測量用に切り払われている。北側正面は、室野の谷をはさんで桝形山と樺木岳の稜線。眼下からは、津花トンネルを出入りする車両の音が響いてくる。
 山頂には3等三角点があるが、大岩は見あたらない。10数年前の記憶をたどると、どうも山頂から南西に延びる主稜線の途中にあったようでもある。山頂からそこまで下り、再び戻ってくる体力気力は残っていなかった。鏡石はやはり幻なのか。
※二上植物群落保存林は広さ21ha。標高800〜1000mの急斜面に、樹齢200年を超えるケヤキ、カエデ、ブナ、ミズナラ、ツガ、ハルニレなどが群落を作る。
室野側から見る明神山 中村と押方を結ぶ古い峠の痕跡の祠 六峰街道沿いに咲くオオバギボウシの花

■往路 町境標木(75分)山道痕跡(15分)明神山山頂
■復路 明神山山頂(10分)山道痕跡(60分)町境標木

第30回 阿蘇南外輪の謎の山名(熊本県西原村・山都町)

広葉樹林の木山川源流を横切り、原野の冠ヶ岳へ

 阿蘇郡西原村の冠ヶ岳(かんむりがだけ、標高1154・1m)の「冠」には、どのような意味が込められているのだろうか。一般的には、山頂部が冠の形に似ていることから「冠ヶ岳」とされたと言われる。
 「冠」は『大辞泉』(小学館刊)によると「頭にかぶるもの。特に、許されて直衣(のうし)を着て参内する束帯・衣冠などのときにかぶるもの。黒の羅(うすもの)で作る。頂にあたる部分を甲、前額部を額という。後方の高い壺は髻(もとどり)を入れる巾子(こじ)で、その後ろに長方形の嬰(えい、俗に燕尾という)2枚を重ねて垂れる」とされる。また「時代によって形式の変化がみられる」という。
 南九州には、西原村と同じ冠ヶ岳(冠岳)と呼ばれる山がいくつかある。最も知られているのが、鹿児島県いちき串木野市の冠岳(標高516m)である。西岳、中岳、東岳の3ピークに分かれるが、冠岳と呼ばれるのは山頂部が岩壁で巻かれた西岳である。伝説では、秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の妙薬を求めて日本に渡ってきた徐福が、この山に冠を留めたことから冠岳と命名されたとされる。
 このほか、宮崎県日向市の冠岳(標高438m)は、合併前の旧東郷町では最も親しまれていた山である。こちらも、東西に分かれた2つの山頂を持つ比較的切り立った里山である。
 また、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡にも冠岳(標高828m)がある。山中には、江戸末期に地元鞍岡の人々によって祀られた八十八ケ所巡りの地蔵があるが、そのことよりも険しい岩山との印象が強い。
 このように、いちき串木野市、日向市、五ヶ瀬町の冠岳は、山頂部が複数に分かれ、しかも比較的切り立った山体という共通点がある。確かに、山の姿も、参内する時に着用する「冠」を連想させるものがあるのかもしれない。
 では、西原村の冠ヶ岳(写真下左、西原育成牧場から見る)はどうか。南北側や東側から見る冠ヶ岳は、実におだやかな山体をしている。それらの方向から見ると、比較的なだらかな草原の山である。
 ところが、西側から遠望すると、様相が変わる。熊本市街地から見る冠ヶ岳は、阿蘇南外輪山の稜線から西側に突出し、山頂西側が急斜面となっているせいで、周囲の稜線とは異質な山体をしているのがわかる。
 また、南北に長い山頂部は、それほどはっきりとしないものの、熊本市側からだと、方向によってはピークが2つに見える。
 西原村と南阿蘇村を結ぶ地蔵峠越えのグリーンロードが開通したおかげで、以前に比べて西原村冠ヶ岳は随分と登りやすくなった。また、鉄塔下の巡視路を利用する新しい登山ルートも開かれた。
 梅雨が一段落した7月下旬、その鉄塔下から冠ヶ岳に登ってみた。この日は、フリースクール地球子屋のスタッフ・メンバーとともに山頂を目指した。
 鉄塔ルートの登山口は、グリーンロード沿い南側の送電線鉄塔下である。巡視路を北に向かうと、山道はすぐに小沢に下る。沢を横切り、次の尾根に這い登ると、山道は伐採地の縁に出る。昨年までは、スギの暗い植林地の中を歩いていたが、伐採されたおかげて木山川(緑川水系加勢川支流)の源流域が見渡せるようになった。
 その先、山道は木山川源流の広葉樹の沢を3つ横切る。途中、日当たりのよい草付き斜面にはウツボグサ、チダケサシ、オカトラノオのほかシモツケソウ、ヤマアジサイ(写真下右)の花が点々と咲き始めている。
 3つ目の沢を過ぎると、山道は西寄りにコースを変え、公共育成牧場の牧野に向かう。
 登山口から一時間ほどで、牧野の鉄条網にぶつかる。その先、展望が一気に広がる。牧野の向こう側、かなたには熊本平野が広がり、斜面を吹き上がる山風が顔にあたるようになる。
 草付きの斜面の中の踏み跡を2、3分歩くと、稜線上の鉄塔の下に到着。そこからは、目指す冠ヶ岳の山頂部がすぐ近くに見える。鉄塔下から山道は東向きに方向を変え、スギ植林地内の尾根を一直線に登る。
 グリーンロード沿いの登山口から1時間30分。意外とあっけなく、草付きの斜面で取り囲まれた冠ヶ岳山頂にたどり着く。ただし、急斜面の北西側だけは、低い潅木帯となっている。山頂手前には、展望岩(写真下中)があり、岩のすぐ脇にはヤマボウシが最後の花を咲かせていた。
 山頂からの展望は、ほぼ360度。俵山からの稜線が北側から伸び、冠ヶ岳東側を迂回。さらに地蔵峠を横切り、大矢岳、大矢野岳へと繋がる様子がよくわかる。
 帰路は、山頂から北に向かい、いったん阿蘇南外輪山縦走路に合流、地蔵峠に向かう。グリーンロードに出る途中、山道の脇には、かつての村(陣内、錦野、山西)境の境界石柱が残り、点々と赤いタマゴタケが姿を見せていた。
 グリーンロードを横切ると、再び縦走路。地蔵峠手前から縦走路と別れ「サントリー天然水の森」経由で、十文字方面に下る。さらに、小松姫墓手前から鉄塔下の巡視路に入ると、登り始めた鉄塔下の登山口に戻ることになる。
西原育成牧場から見る冠ヶ岳 冠ヶ岳山頂横の展望岩 木山川源流側で見かけたヤマアジサイ

■往路 鉄塔下登山口(90分)冠ヶ岳山頂
■復路 冠ヶ岳山頂(15分)南阿蘇外輪山縦走路(45分)グリーンロード(80分)鉄塔下登山口

第29回 荒谷・白滝から登る揺岳(宮崎県五ヶ瀬町)

木地師の痕跡残す長迫小椋家

 山の人生とは、なんなのだろうか…。かつて、山の人々には、豊かな水田の広がる平坦地やにぎやかな市街地とは違った生き方があった。
 五ヶ瀬町三ヶ所の長迫(ながさこ)集落は、五ヶ瀬川支流三ヶ所川の上流にあたる。谷沿いに登り、尾根を一つ越えれば、椎葉村・諸塚村という山間の村である。
 その長迫には、木地師の末裔にあたる小椋康尋さんが暮らしている。小椋家には、康尋さんの祖父岩三郎さんが使っていた木地ロクロ(写真下左)が、今でも大切に保存されている。
 岩三郎さんが亡くなったのが、昭和41年2月14日、81歳の時である。岩三郎さんと妻シモさんが、長迫に定住したのが、大正末期から昭和初期にかけてのこと。2代目(康尋さんの父にあたる)幸四郎さん(平成15年8月28日に85歳で亡くなる)が小学生のころである。
 岩三郎さんとシモさんは、長迫に腰を落ち着けるまでの10年間ほど、椎葉や岩戸(高千穂)の山中で、小屋掛けしながら木の盆などを作っていたという。2人は、長迫定住後もしばらくは木地師の仕事を続けている。
 昭和28年生まれの康尋さんが物心ついたころには、すでに岩三郎さんは木地ロクロを回すことはなかったというが、三ヶ所では昭和初期まで木地師の技術が生き続けていたことになる。
 その長迫に立つと、戸根川の右手奥に揺岳(標高1335.2m)の姿が望める(写真下中、右奥の尖ったピーク)。かつて、岩三郎さんが材料を求めて分け入った山域も、今では稜線を除いて、その多くが植林地となってしまった。
 10数年前に林道荒谷大石越線が開通して以来、揺岳に登る人も増えた。登山路としては、大石越からが一般的だが、あえて南側の稜線から揺岳を目指してみた。
 五ヶ瀬町荒谷から、白滝・日平に向かう林道を車で登る。急傾斜の曲がり角をいくつか越えた先に、白滝が見えてくる。林道は、白滝(写真下右)の奥で二股に分かれる。
 林道の第1分岐点からは、左へ登る林道を歩く。林道沿いの雑木林には、マルバウツギやコガクウツギが点々と花をつけている。林道は、小石が散乱してやや荒れ気味。梅雨前の日光を避け、日陰を選んで歩く。再び林道の分岐点。ここを右にとると、樹林の間から揺岳の姿が小さく見え始める。
 歩き始めて1時間ほどで、日平県有林の作業小屋前に到着。そこからは林道と別れて、主稜線に向け、林の中の踏み跡をたどることになる。
 踏み跡の左側はヒノキとスギの植林地。右側は雑木林。雑木林はエゴノキ、ネジキ、リョウブ、サワフタギ、イヌシデ、ミズキ、ヤマザクラなどの混成林である。ただ、主稜線に近づくに従って、アカマツ、ミズナラ、シロモジ、ヒメシャラが現れる。
 作業小屋から20分で、4等三角点の置かれた1281mピークに登り着いた。主稜線を南下すれば半蔵山(標高1361.5m)、北に向かえば目指す揺岳である。黄砂のせいか、揺岳は遠くにボンヤリとしか見えない。たどり着けるのか、不安になる。
 半蔵山で体験した通り、主稜線は地籍調査のために切り分けられている。だが、思った以上にスズタケが多い。切り分けのおかげでヤブコギを強いられることはない。
 1281mピークからは、ひたすらスズタケ密生地の切り分け道をたどる。ミズナラの大木が現れ始めると、自然林も深くなる。1232mピークからは、揺岳に向けてじわじわと登り始める。ブナも点々と混じるようになる。切り払われたスズタケの上にマムシが1匹。近くには、スズタケの花芽が2本。その先では、イノシシの寝床が現れる。
 揺岳への登りにかかると、傾斜も急になり稜線もやせてくる。高度が上がり、山風も吹くようになったが、5月末にしては気温が異常に高い。汗が体中にまとわりつく。なかなか山頂にはたどり着かない。枯れたスズタケを踏みしめる足元にも、いつの間にか力が入らなくなる。  歩き始めて2時間45分。ようやく揺岳山頂である。日曜日だが、山頂は無人。山頂一帯に多いミツバツツジも、とっくに花が散ってしまっていた。
長迫小椋家に残る木地ロクロ 二上岳側から見る揺岳(右の尖峰) 白滝

■往路 荒谷から白滝・日平への林道第1分岐点(林道を25分)林道第2分岐点(林道を40分)日平作業小屋(20分)1281mピーク(40分)1232mピーク(40分)揺岳山頂
■復路 揺岳山頂(25分)1232mピーク(40分)1281mピーク(10分)日平作業小屋(林道を50分)林道第1分岐点

第28回 財木峠から幻の半蔵山を目指す(宮崎県五ヶ瀬町)

鉱石運搬のゴンドラ跡はいずこに?

 宮崎県椎葉村財木(たからぎ)には、銅や錫を採掘していた財木鉱山があった。(写真下左は抗口跡)
 『椎葉村史』などによると、財木鉱山が採掘を開始したのは、昭和8年(1933)。採掘を止めたのが、昭和24年(1949)のことである。
 財木鉱山の最盛期、財木は椎葉村でも最もにぎやかな地区であった。鉱山の坑口は3つあり、多い時には300名を超える人々が働いていたとされる。また、診療所や分校(仲塔小学校財木分校)もあった。
 鉱山から掘り出された鉱石は、いったん選別された後、村外に搬出された。搬出に活躍したのが、山越えのゴンドラであった。
 地元の人の話によると、コンドラは鉱山から半蔵山(はんぞうやま、標高1361.5m)の斜面を登り、稜線を越え、五ヶ瀬町水流(つる)までつながっていたという。  そのゴンドラの動力となったのが、五ヶ瀬町廻渕(めぐりぶち)にあった水力発電所から送られる電気であった。そのせいで、財木は椎葉村では最も早い時期に電灯がともっている。
 その半蔵山(写真下中)には、10数年前に五ヶ瀬町戸根川側から登ったことがあった。戸根川は、五ヶ瀬川支流の三ヶ所川から分かれる沢である。戸根川と三ヶ所川の合流点が長迫(ながさこ)集落である。
 長迫は、近くの内ノ口で活動していた木地師が移り住んだ集落とされている。戸根川沿いに半蔵山を目指した時、沢の傍らに、九州には自生していないとされるトクサ(トクサ科)を見つけた。トクサは、昔は木製品の仕上げに欠かせないもので、木地師の仕事と関連深い植物である。
 今回は、五ヶ瀬町本屋敷(もとやしき)から、財木峠への町道を登り、峠から稜線沿いに半蔵山を目指すことにした。
 本屋敷から国道265号を椎葉に向け南下すると、左手にヤマメ養殖場へ登る狭い町道が分かれる。養殖場の横を抜けると、急傾斜の簡易舗装の道となる。
 かつて、ヤマメ養殖場から奥は、雑木主体の森であったが、40〜50年ほど昔にパルプ用に皆伐されている。その後、民間の林業会社によってスギ、ヒノキが植林されている。財木峠への町道は、林業会社が当時の作業林道を五ヶ瀬町に寄贈したものである。
 ヤマメ養殖場から車で15分ほど登ると、財木峠である。ここからは、稜線の切り分けを忠実に伝う。スズタケの多い尾根だが、地籍調査時の切り分けが残るおかげで、歩きやすい。2日前に降った雪が、尾根に残ったまま。溶けかかった雪で、足もとがすべりやすい。
 しばらくは、スギ、ヒノキの植林地だが、その先で雑木の尾根となる。ミズナラ、コナラ、ブナ、ヤマグリ、モミジなどが混在した自然林が続く。  峠から30分以上ほ尾根を登ると1231mピーク。稜線の東側はヒノキ植林地、西側は雑木林となる。1231mピークを下ると、送電線巡視路とぶつかる。巡視路から尾根を登ると、38号鉄塔である。
 38号鉄塔からは、西側に向坂山(標高1684.4m)と小川岳(標高1542.1m)、東側には黒岳(標高1453.3m)の稜線が望める。
 38号鉄塔からも、稜線の切り分け道をたどる。しばらくで、1252mピーク。その先、鞍部に向けて下ると、再び巡視路と合流した。
 しばらくは、巡視路をたどることになる。踏み跡もはっきりとする。すぐに財木と大平を結ぶ峠道とぶつかる。峠には、地蔵さんの替わりに、割れた石柱が祀られている。
 ここからは、正面の1361mピークに向け、急斜面の植林地を直登することになる。20分ほどで、ようやく稜線に登り着く。尾根のヒノキに、あたりの山林を所有する吉野(奈良県)北村林業の標識が墨で書き付けられていた。
 稜線を1361mピークに向かうと、尾根を掘り割った切り通し(写真下右)が現れた。深さ3m幅10mほど。財木と水流を結ぶゴンドラが尾根を越えた地点である。
 切り通しのすぐ上が、1361mピーク。あとは、半蔵山に向け稜線の切り分けをひたすら歩くことになる。財木峠から2時間20分で、ようやく半蔵山山頂である。
 山頂は、植林地と雑木にはさまれた鈍頭のピーク。航空測量用に広く切り払われ、枯れたカヤに覆われている。三等三角点が山頂の目印である。
 帰路は、1361mピーク下から巡視路に入り、1252mピークと1231mピークを迂回する。37号鉄塔横を下ると作業林道である。
財木鉱山跡に残る抗口 鞍岡側から見る半蔵山 ゴンドラ尾根越えの切り通し跡

■往路 財木峠(35分)1231mピーク(15分)38号鉄塔(15分)1252mピーク(15分)地蔵さん峠(30分)1361mピーク(30分)半蔵山
■復路 半蔵山(25分)1361mピーク(15分)地蔵さん峠(水平歩道の巡視路を20分)38号鉄塔下(巡視路を10分)37号鉄塔下(巡視路を10分)作業林道(林道を5分)財木峠

第27回 吉無田高原から黒岩と大矢野岳まで(上益城郡山都町)

秘密の自然林尾根をたどり阿蘇南外輪山へ

 麓からいくら見上げても、黒岩(標高1040.7m)という山の姿は、確認することが難しい。
 黒岩は、標高1000mを超えるものの、大矢岳(標高1220m)から南西に下る尾根上の小ピークであるため、遠くから見ても目立つことがない。しかし、黒岩は、帝国陸軍の砲撃訓練の着弾目標地だったという。
 麓の陸上自衛隊大矢野原演習場は、戦前、帝国陸軍の軍事演習場であった。現在の演習場よりも広大な面積を占めていた。今でも、演習場周辺には「陸軍所轄地」の古い石柱(下左写真はオダラ谷のもの)が残されている。
 同様の石柱は、西原育成牧場北側の高畑山(標高796.6m)にもあることから、演習場は現在よりも、北側や西側にかなり広がっていたことがわかる。
 また、現在の御船町吉無田高原一帯も演習場であった。里山通信社のあたりも、戦後になって地元に払い下げられるまで、演習場の敷地内であった。
 大矢野原陸軍所轄地までのアプローチも現在とは異なっていた。戦前は、熊本市の健軍から大矢野原まで軍道がつながっていたという。軍道は、ちょうど御船町水源地区土場(どば)の山の神の横を通り、オダラ谷を経由して演習場につながっていたらしい。
 また、大正時代に開削された益城町木山と山都町中島を結ぶ県道57号(通称木山道路)も、軍事用道路としての意味合いが強かった。
 吉無田水源から大規模林道を八勢川沿いに500mほど下ると、左に吉無田官山に向かう林道が分かれる。林道は、吉無田国有林と大矢野原演習場の境を大きく迂回するように、山都町大矢方面につながっている。
 林道入口から4qほどで、亀谷川に架かる黒岩橋のたもとに出る。最初の目的地・黒岩には、ここからスギ・ヒノキの植林地の中を登ることになる。林床には、人の通った形跡はない。草も生えない暗い林の中に、獣道が幾筋かあるだけである。
 この日は、フリースクール地球子屋(てらこや)のメンバー・スタッフと共に登った。人の踏み跡がどこにも見あたらない暗い森の中で、同行者たちの顔が不安で曇るのがわかる。
 植林地を一気に登り上がると、だんだんと傾斜が緩やかになり、あっけなく黒岩山頂に着いた。山頂手前から雑木林が増え、林床にはササが目立つようになる。
 山頂には3等三角点が置かれる。三角点を越えて、北西方面に向けてササをかき分けると、雑木林が切れる。展望が開ける。青空がまぶしい。黒岩から主稜線に向けて登ると、九州電力送電線鉄塔下の草原(くさはら)にぶつかる。
 ここからは、草原を横切り、大矢岳につながる自然林の尾根を伝う。ミズナラ、コナラ、ヤマグリ、アカマツ、アセビの混じり合う森の中を登ると、標高1100mを超えたあたりで、ブナの大木が点々と現れる。
 ブナの混じる森を過ぎると、アセビの純林となり、その上でノリウツギが増えてくる。ノリウツギをかきわけ、明るい斜面を登り切ると、大矢岳山頂である。
 大矢岳からは、尾根沿いの自然歩道を大矢野岳(標高1236m、写真下中)まで15分ほど。大矢野岳から再び大矢岳に戻り、自然歩道を北に向かう。自然林が切れ、展望が一気に開ける。
 草原の尾根からは、正面北側に冠ヶ岳(標高1154.1m)。その奥が俵山、鞍岳である。東側は、南郷谷をはさんで阿蘇五岳。奥には祖母・傾山系と大崩山系がうっすらと見渡せる。振り返ると、九州脊梁の稜線が長々と横たわる。西側から南西にかけては、金峰山、雲仙普賢岳や天草が見えることになる。
 地蔵峠まで下ると、平日のせいか人影もない。峠の祠の地蔵さん(写真下右)に手を合わせれば、あとは十文字への峠道を下るだけである。
陸軍所轄地の石柱 大矢野岳山頂 地蔵峠の地蔵さん

■往路 黒岩橋(30分)黒岩山頂(20分)九州電力送電線鉄塔(50分)大矢岳(15分)大矢野岳
■復路 大矢野岳(10分)大矢岳(35分)地蔵峠(70分)黒岩橋

第26回 郡浦から神風連の大岳と雄岳へ(宇城市三角町)

不知火海の陽光を浴びてミカンの尾根歩き

 不知火海沿いを走る国道266号から、県道243号に入ると、狭い車道が半島の丘陵地を登り始める。右下に、こんもりとしたクスの林が見える。郡浦神社(写真下右)の鎮守の森である。
 県道243号は宇土半島を横切り、宇城市三角町と宇土市網田を結ぶ。支尾根に沿った県道を上ると、ミカン畑が半島の南斜面に広がる様子がよくわかる。
 国道から県道を10分ほど運転すると、小さな峠に出た。郡浦と網田を結ぶ古い峠である。人の気配のない峠には、古い祠(ほこら)が置かれている。
 車を止めて祠をながめていると、網田側の林の中から、ひとりのご婦人がひょっこりと姿を現した。
 狐にだまされたような気持ちで「どこから来られたのですか」と尋ねると、三角に行くのに近道をして登って来たと言う。網田側から峠までは、かなりの距離である。
 峠の祠を指さして「なにを祀っているのですか」と質問すると「峠の地蔵さんだよ」と答えると、身をひるがえすようにして郡浦側に下って行った。
 峠から網田側に下ると、右に大岳に向かう尾根沿いの農道が分かれる。農道脇に車を止め歩き始めると、陽光に照らされた不知火海の景色が広がる。不知火海の奥では、何本かのエントツから煙が立ち上る。八代市の工場群である。
 尾根の切れ目からは、半島北側の景色もチラリと覗くことができる。熊本平野を挟んで、遠くにうっすらと見えるのは、一ノ岳(金峰山、標高665m)である。網田側からは、漁船のエンジン音がここまで響く。
 あとは、ひたすら大岳(標高477・6m)を目指して歩くだけである。スギ、ヒノキの植林地に混じって、ツワブキ、トベラ、アオキ、ゴマギの葉が陽に輝いている。しばらく歩くと、正面奥に大岳(写真下左)の姿が現れた。
 雄岳(標高348m)との分岐点にたどりついたのは、歩き始めて20分ほどたってから。農道の分かれを左に入ると、尾根の高台に登る。ホトケノザの花咲くデコポン園の脇を進むと、雄岳への切り分け道がある。
 切り分け道に入ると、途中からヒノキ造林地と雑木の境を登るようになる。農道から20分ほどで雄岳山頂である。山頂は、スギとヒノキの林の中。「宇土市地籍調査」の杭と宇土高山岳部の「雄岳348m」の標識が立つ。それと、やや離れた場所に、古めかしい石柱がポツンとある。
 尾根伝いの農道に戻り15分ほど歩くと、左に農機具小屋がある。そこから左に分かれ、簡易舗装の道を登ると、農道は終点となる。あとは、雑木の中の山道を大岳へ向かうことになる。
 山道は、スギ・ヒノキ混じりの雑木に挟まれる。小さな鞍部をひとつ越えると、木組の階段が現れる。傾斜も急になってくる。山頂に近づくにつれ、雑木がうっそうとして冬の陽光も届かない。山道を30分ほど登ると、目指す大岳山頂である。
 山頂には大岳山神社(写真下中)の石の祠が建つ。創建不明の古い祠である。もともと大岳そのものが、不知火海沿岸での重要な神域であったとされる。
 大岳山頂には、もう一つ歴史の痕跡が残る。「神風連六烈士自刃之跡」の石碑である。明治9年(1876)10月、大田黒伴雄を中心に170名の士族が軍官民要人と鎮台を襲撃したのが神風連の乱である。その後、神風連に加わった加々見重郎、古田十郎、田代儀太郎、田代儀五郎、森下照義、坂本重孝が大岳山頂で自刃する。石碑には、その名が刻まれている。
 6名が自刃したのは、明治9年10月29日。神風連の乱後、6名は舟で松合に上陸、大岳麓の郡浦神社で同志甲斐武雄と会っている。再挙の可能性を探るためである。
 大岳から下り農道まで出ると、朝には九州脊梁から不知火海を照らしていた陽光が、いつの間にか海を渡り、天草側から差すようになっていた。
雄岳方面から見る大岳 山頂の大岳山神社 郡浦神社

■往路 農道入口(20分)雄岳への農道分岐点(20分)雄岳山頂(15分)大岳への農道分岐点(5分)大岳登り口(30分)大岳山頂
■復路 大岳山頂(20分)大岳登り口(40分)農道入口
※郡浦神社は健軍神社、甲佐神社とともに阿蘇神社の三摂社の一つで「三宮」と呼ばれている。祭神は、蒲智比当ス、健盤龍命、速瓶玉命、神武天皇の四神である。境内には、明治維新まであった神宮寺「常福寺」跡があり、古代後期作と伝えられる五重の石塔が残る。
※個人的な見解では、「大岳」(おおたけ)が実は「雄岳」(おたけ)あるいは「御岳」(おんたけ)で、地図上の「雄岳」は本来「雌岳」(めたけ)ではなかったかと思える。

第25回 五ヶ瀬川を渡り、冬の烏帽子岳へ(宮崎県高千穂町)

大崩、祖母、諸塚を望む大展望台

 天翔大橋(宮崎県日之影町)から見る烏帽子岳(標高808.7m)は、確かに烏帽子のように尖った姿をしている。大橋の上から見上げると、北側から山頂に向けて、ほぼ一直線に伸びる一本尾根がある。そのラインが実に美しい。(写真下左)
 天翔大橋は、長さ260m。コンクリートアーチ橋としては日本1の長さだという。五ヶ瀬川水面からの高さは143mで、やはりコンクリートアーチ橋では日本1の高さである。
 大橋の架設地点は、五ヶ瀬川・秋元川の合流点よりやや下流。切り立った崖の上を、カーブを描いて橋が架かる。下を覗き込むと、川面から吹き上がる風が思いのほか強い。
 橋のたもとの説明板によると、架設地点を地元では「吹上」と呼んでいる。風の通り道らしい。それを逆手にとって、橋の欄干には夜間照明用の風力発電機が何本か立てられている。
 烏帽子岳へは、天翔大橋からではなく、上流の青葉大橋を渡る。高千穂町中心地の三田井(みたい)から、青葉大橋を渡ると向山(むこうやま)。向山北小学校横から丸小野谷沿いの町道に入ると、登山口の丸小野集落である。
 丸小野集落は、烏帽子岳と鞍掛山(標高742m)にはさまれた谷沿いに開ける。谷の両側は棚田と段々畑、茶畑である。集落の奥から烏帽子岳林道が左に分かれる。林道に入ると、しばらく先で丸小野林道との分岐点。ここから歩き始める。
 竹林とスギ林の間を抜けると、林道脇に軽トラックが止まっていた。スギ林の中に人の動く気配がする。シイタケのホタ場で地元の人が作業中であった。立ち話の中で向山神社のことを教えてくれた。「参道の長い神社として有名」だという。
 アスファルト舗装の林道を歩くと、雑木林に石灰岩の露頭が現れる。よく見ると、雑木林から林道に転げ落ちた倒木にヒラタケが付いている。その先、天翔大橋から見えた一本尾根を回り込むと展望が開け、茶畑となった。
 茶畑からは高千穂市街地が望め、その背後は祖母山系である。大崩山系は、その右手奥。そして、東側直下に見えるのが天翔大橋と五ヶ瀬川である。(写真下中)
 茶畑の先には電波塔が建つ。それを過ぎると、林道は稜線西側に沿ってまっすぐ山頂に向かう。
 雑木林が増え、丸小野谷側の展望が開けてくる。谷の対岸の小ピークが鞍掛山。そこから北に下る稜線上にスギ大木の集まるところがある。地図を見ると、どうやらそこが向山神社らしい。
 鞍掛山を右手に見ながら、ひたすら林道を歩く。林道沿いには、フキの枯れ葉が点々と続く。試しに、葉の根元の落ち葉を取り除くと、フキノトウが現れた。ほとんどが小指の先ほどの大きさだが、もうふっくらとふくらんだフキノトウもあった。
 その先、林道がジクザクに登り始める。シマカンギクの黄色い花が点々と現れたかと思うと、いつの間にか主稜線に上がった。尾根にはテレビ中継塔がいくつも並ぶが、山頂はまだ先。テレビ中継塔の脇を回り込むと、狭い山頂にたどり着いた。
 山頂からは、360度の展望が得られる。北側の高千穂市街地を眼下に、そのまわりには祖母山系から大崩山系にかけての無数の峰々が連なる。
 そして、祖母山系の西奥には、見慣れた阿蘇高岳と根子岳の姿が霞に包まれている。一方、山頂から南側を望むと、諸塚山(標高1342.6m)の大きな山体が横たわる。
 頂上には三等三角点が置かれている。すぐ脇には、麓の黒仁田集落で祀る小さな石造りの祠がある。消えかかった文字を指でなぞると「大山角野尊」と彫られていた。(写真下右)
天翔大橋から見る烏帽子岳 山頂から見る大崩山系と天翔大橋 烏帽子岳山頂の石の祠

■往路 烏帽子岳林道・丸小野林道分岐点(20分)山の茶畑(60分)烏帽子岳山頂
■復路 烏帽子岳山頂(45分)山の茶畑(15分)烏帽子岳林道・丸小野林道分岐点
※向山神社までは丸小野集落から歩いて30分ほど。谷沿いの町道から分かれた舗装道を人家まで登る。人家前からは山道となり、茶畑とクヌギ林の脇を15分ほど歩くと鳥居前に出る。鳥居からは尾根伝いの長い参道を歩く。途中、社殿までには215段の石段がある。

第24回 坂狩から鏡石信仰の中登岳(宮崎県五ヶ瀬町)

三ヵ所川を取り巻く伝説の山へ

 宮崎県五ヶ瀬町の「三ヵ所」(旧三ヵ所村)とは、三ヵ所の鏡石のことである。
 三ヵ所川を取り巻く3つの山、「廻淵鏡山」「室野明神山」「坂狩中登岳」に祀られる鏡石が、「三ヵ所」の地名の由来である。
 「廻淵鏡山」とは、五ヶ瀬町と馬見原(山都町)との境にある鏡山(標高916.8m)、「室野明神山」は、津花峠南側の明神山(標高947.9m、地図上には山名はない)、「坂狩中登岳」は、坂狩集落東側の中登岳(標高949.2m)である。3つの山とも、祭神に鏡石を祀り信仰していた。
 うち、中登岳山頂には、かつて鏡石を祀る中登嶽神社があった。明治44年に三ヵ所神社と合祀され、その後、現在地(坂狩の国道503号沿い)に移されている。(写真下左)
 坂狩集落から林道を歩き出すと、左手正面に雑木林とスギ・ヒノキ植林地が混在した中登岳が見えてくる。林道脇は、棚田とクヌギ林。林道上からはクヌギを伐採するチェンソーの音。林道下の斜面からは、クヌギにドリルで穴を開ける機械音とシイタケ菌を打ち込む木槌のカン高い音が響いてくる。
 ちょうどそのあたりで、後藤寅五郎(旧三ヵ所村の篤志家)によって開削された三ヵ所用水路(写真下右、延長26キロ、大正14年9月着工・昭和2年4月完成)を横切ったはずだが、それにも気づかずひたすら林道を登ったことになる。
 林道は、左カーブと右カーブを連ねた登り道となり、坂狩集落から内の口集落に至る小さな峠に出る。峠の脇は、シイタケのホタ場となっているが、その脇に石灰岩と黒い丸石が並んだ質素な祠が祀られていた。
 その先、林道はやや下り気味となり、右手奥眼下に内の口集落が望めるようになる。内の口は、かつて、二上山(標高1080m)の原生林に初めて斧を入れた木地師が住み着いたとの伝説の地である。
 内の口の谷を見下ろしながら林道を進むと、三差路となる。左に登る林道をたどると、再び坂狩集落を左に望むようにして中登岳の支尾根を巻き始める。ヤマラッキョウとシマカンギク(写真下中)が交互に現れる。首の長いヤマラッキョウの花だけが、かすかな風にゆっくりと揺れている。
 雑木の多いせいか、林道は、すっかり落ち葉で覆われている。落ち葉を踏みしめるように先を急ぐ。坂狩集落が見下ろせる場所まで登ると、三ヵ所川を挟んで、遠く祇園山(標高1307.1m)と揺岳(標高1335.2m)の山頂部が見えた。その奥のうっすらとした稜線は、半蔵山(標高1361.5m)である。
 さらに登ると、林道は雑木林に挟まれ、石灰岩の露頭が現れる。そして、石灰岩の脇には、地蜂の巣がいくつか仕掛けられている。その先、林道は土砂崩れで途切れる。
 土砂崩れを乗り越えると、荒れた林道が続く。雑木林には、ハリギリの大木が何本も混じる。
 坂狩から一時間半以上もかかって、ようやく中登岳の尾根を越える地点までたどり着いた。思った以上に林道の歩きが長い。
 林道の峠からは、ヒノキと雑木に挟まれたかすかな踏み跡をたどることになる。しばらくで、南側一面がアカマツ混じりの雑木林となる。ミヤマシキミをかき分け登ると、あっけなく中登岳の山頂である。頂上には3等三角点が置かれる。
 山頂から坂狩まで下ると、登る時に聞こえていた作業音はすっかり止んでいた。
 坂狩には、天正年間から伝えられるという「荒踊り」(国の重要無形文化財)がある。三ヵ所坂本城主坂本伊賀之守正行が創設したとされ、孫の山城之守正次入道休覚が、慶長年間に守護神二上神社(現三ヵ所神社)に奉納する踊りとして完成させたという。現在は、三ヵ所神社とともに中登嶽神社と坂本城址でも舞われているという。
中登嶽神社から見る中登岳 中登岳麓に咲くシマカンギク 内の口川を渡る三カ所用水路

■往路 国道沿い坂狩集落(30分)祠のある坂狩峠(15分)林道三差路(30分)林道崩壊地(20分)林道峠(15分)中登岳山頂
■復路 中登岳山頂(10分)林道峠(15分)林道崩壊地(25分)林道三差路(35分)国道沿い坂狩集落

第23回 崩野峠から国見岳へ(宮崎県高千穂町・高森町)

九州の三秀峰を見渡す高原の山

 崩野峠は、伊東義祐が、わずかの供と越えた峠である。標高は854m。高千穂町河内からなら、標高差が、350mもある。
 伊東義祐は、戦国期の日向(現在の宮崎県)で権勢を振るった武将である。しかし、元亀3年(1572)の木崎原(現在の宮崎県飯野)の戦いで島津に大敗する。天正5年(1577)暮れには、大友宗麟を頼って豊後に落ち延びている。
 義祐一行は、本拠地の佐土原から日向の山間のルートをたどり、高千穂河内から崩野峠を越え豊後に入ったとされる。
 その道を、河内から自動車で上ってみる。かつて、狭い車道を対向車を気にしながら登った峠道も改良され、離合できなかった峠のトンネルも、新しいものと付け替えられていた。昔の面影がほとんど感じられないほどの変わりようである。
 それでも、峠の手前から旧道に入ると、なつかしい旧トンネルが現れた。トンネルをくぐると、その狭さに今更ながら驚いてしまう。
 国見岳(標高1087.7m)に登るのは3度目である。(写真下左は三秀台から見る国見岳)
 最初は、15年ほど前。高森町下切から下切越に上がり、稜線を延々と伝って山頂に至った。膝まで雪が積もった山頂にたどりついたのは、午後4時。それからは、薄暗い山中を必死の思いで下った。
 2回目は、それから2、3年後。高森町蔵地方面から谷沿いに直登した。崩野峠から山頂までの踏み跡があることを知ったのは、その後のこと。
 旧崩野トンネルを抜けると、すぐ左手に「国見岳」の小さな標識が立っている。歩き始めは作業林道だが、すぐに踏み跡がとぎれる。しかたなく、ササの茂った支尾根にあがり、主尾根に向かうと、いつの間にかかすかな踏み跡が現れた。
 尾根北側は藪が少なく、歩きやすい。ヒノキ林の下に残された獣道をたどると、尾根に赤テープがぶら下がっているのを見つけた。そのあたりからササ藪が消え、コナラやアカマツ、アセビの雑木が混じるようになった。
 すぐに小ピークに上がる。そこを越えて鞍部に下ると、尾根を横切る作業林道とぶつかった。植林地の切れ目からは、北側の展望が開ける。眼下は、高千穂町五ヶ所から高森町津留にかけての高原地帯。その奥には、越敷岳(標高1061m)と黒岳(標高1578m)。その間に見えるのが祖母山(標高1756m)である。
 作業林道を左にとると、すぐに尾根に上がる踏み跡が現れる。広く切り払われた山道である。ミズナラ混じりの雑木林が続く。体調はいいのだが、なぜか足がもつれる。精神的なものか? シカの鳴き声も聞こえる。
 山道が立派なのには理由があった。しばらく先で、テレビ中継所が現れた。そこまでで歩きやすい山道はとぎれる。先は、再びササに挟まれた細い踏み跡となる。
 尾根伝いの踏み跡を登ると、スズタケがだんだんと茂るようになる。しばらくスズタケをかき分けていると、正面右手に国見岳山頂が見えてきた。
 大きな鞍部を越えると、山頂部への急な登りとなる。稜線にはドウダンツツジやヤマボウシがあり、葉が色づき始めている。
 スズタケ地帯を抜けると、あたりが急に明るくなり、雑木に挟まれた山頂尾根に出た。山頂はすぐ先。2等三角点が置かれている。雑木が残るためか、東側以外の展望はさえない。
 山頂から東に見えるのが、赤川浦岳(標高1231.8m)。その右手奥には、三田井(高千穂町)へ続く丘陵地帯が広がる。
 帰りは、作業林道を下ってみた。麓の国見集落近くまで下ると、原野ではヨメナ(写真下中)やサイヨウシャジン、アキノキリンソウ、ウメバチソウが花盛り。県道に出ると、三秀台はすぐ近くである。
 日本アルプス生みの親であるウェストンが祖母山に登ったのは、明治23年11月6日。まだ日本アルプスに登る以前のことである。
 三秀台にはウェストンを記念した鐘突塔(写真下右)が建つ。鐘突塔から崩野峠旧トンネルまでは、歩いて15分の距離である。
三秀台から見る国見岳 国見岳麓に咲くヨメナ 三秀台ウェストン鐘突塔

■往路 旧崩野峠トンネル(30分)作業林道(20分)テレビ中継所(40分)国見岳山頂
■復路 国見岳山頂(20分)テレビ中継所(10分)作業林道(50分)国見集落(30分)三秀台(15分)旧崩野峠トンネル

第22回 護王峠の谷から俵山、縦走路へ(阿蘇郡西原村)

初秋の阿蘇南外輪山で野の花競演

 出ノ口集落から、自家用車で牧野へ通じる舗装道路に入ると、しぱらくはスギ林の下の薄暗い道となる。なんとなく陰気な気分になるが、すぐにスギ林は切れ、護王峠の麓に広がる明るい原野となる。
 ヤマハギが道路に覆い被さるように咲き誇っている。右手には一ノ峯(標高857.9m)と二ノ峯(標高870m)のピーク、正面奥には阿蘇南外輪山の稜線、左手には俵山(標高1094.9m)からの支尾根が見えてくる。
 人の気配もない原野だが、放牧用の機械小屋があり、何本かの作業道が斜面を登っている。秋空の下では、野鳥の声と沢水の音、ススキ野をわたる風のかすかな音しか聞こえない。そのススキ野も、この時期はまだ青さが強く、白波が揺れるような状態にはほど遠い。
 牧野の奥、舗装道が谷を渡る手前で車を置いて歩き始める。作業林道は浅いせせらぎを横切るが、いつものように長靴を履いているために、こんな時は便利だ。
 作業林道は奥で草に埋もれるようにして、護王峠へ向かう踏み跡となって消えるが、その手前から、左に九州電力の送電線(中央幹線)鉄塔の巡視路が分かれる。これが、俵山山頂につながる登山路である。
 登り始めはヒノキ林が続くが、しばらくして展望の効く原野に出る。その先で最初の鉄塔(136号)が現れる。山道には、ゲンノショウコやヤマハッカが多いが、マツムシソウの姿も現れた。
 山道に入って30分で137号鉄塔。そこで、山道は二手に分かれる。直進すれば、西原村「萌の里」に下る。俵山へは、右への踏み跡を登る。しばらくは、ススキが踏み跡に覆い被さり、道を見失いそうになる。ヒノキの若木の間を抜けると、ヒノキ林の下に入り、空気がひんやりとする。
 山の斜面を斜めに登るように、山道をたどる。沢水の流れる水場を横切ると、ススキの繁った防火帯に出る。防火帯とヒノキ林の境に沿ってひたすら登る。ススキが切れ、ようやく展望が効くようになった。
 ここまで登ると、熊本平野を見下ろせるようになる。マツムシソウも随分と多くなり、初秋の阿蘇らしくなった。オミナエシやノダケ、ホソバノヤマハハコ(写真下左)も見られる。野草の種類が増え、楽しくなる。
 その先、山道は「萌の里」方面から登ってきた作業林道と合流。作業林道をたどると、再び防火帯に沿った山道が左に分かれる。  あとは、ススキに囲まれた踏み跡をまっすぐ登るだけだが、これがなかなかつらい山道となる。山頂の主稜線は奥に見えているが、思いの外、距離がある。
 竹の杖にもたれるようにして、呼吸を整える回数が増えてくる。山風が吹くので汗はそれほどかかないが、膝が上がらない。山頂尾根がチラチラ見えるだけに、うらめしい。
 歩き始めて2時間。俵山山頂である。柔らかい風が横切る。平日のためか、先客は一人。山頂から見る阿蘇五岳は、霞んだ空気のせいか、ぼんやりと眠たそうである。
 山頂から護王峠への下りは、急坂の連続である。何度来ても、護王峠で人と出会ったことがないのはなぜか。今日も、人の気配が感じられない。
 ただ、甲斐有雄さんの道標「君も志連 我ハ心を尽し野々 道の志をりに 名を有雄 明治十年六月 道守甲斐有雄」(写真下中)があるのに気がついた。いつからあったものなのか…。  護王峠からは、地蔵峠に向かう尾根道をひたすら歩く。小ピークを2つ越えると、尖ったピークが3つ連続する。草付きの急斜面を息切れしながら登ると、シオガマギクが小さな群落を作っていた。あとは、景色も見る余裕もなく、ただ足を前に出すだけ。振り返って見る俵山(写真下右)は、随分と険しい山に見える。
 一ノ峯へつながる稜線との分岐点にたどりついたころには、足に重い鉛をぶら下げた気分となっていた。分岐点で縦走路と別れ、右の踏み跡に分け入る。
 支尾根に沿ってまっすぐ下ると、牧野の縁に飛び出る。133号鉄塔から右への巡視路をたどる。134号鉄塔、135号鉄塔を経由して、簡易舗装の作業林道に出る。そこを横切り、スギ林の下を足を引きずりながら歩くと、谷川にぶつかる。小さな橋を渡ると、ようやく登り始めの作業林道に出会うことになる。
ホソバノヤマハハコの白い花 護王峠の甲斐有雄の道標 護王峠側から見る俵山

■往路 簡易舗装道渡河点(10分)中央幹線巡視路入口(10分)136号鉄塔(15分)137号鉄塔(15分)水場(25分)作業林道(40分)俵山山頂
■復路 俵山山頂(40分)護王峠(80分)一ノ峯分岐点(25分)133号鉄塔(60分)簡易舗装道渡河点

第21回 目磨・幕から小田尾、白山まで(熊本県美里町・八代市)

消えたコバ作の村と謎の白山信仰の山

 国道218号から旧道に入ると、すぐに美里町(旧砥用町)目磨(めとぎ)への狭い町道が鋭角に分岐する。人家の間を抜けると、津留川に架かる橋に出る。渡ったところが、かつての熊延(ゆうえん)鉄道釈迦院駅跡である。軌道敷跡は、一部が生活道路となっているが、駅のあったあたりには広いスペースが残されている。
 目磨で白山のことを尋ねると、親切に教えてくれた。「ああ白山(はくさん)ね。だけど、ここからは白山は見えない。白山はもっと奥にある山だよ」という。
 小田尾(おたお)については「10年ぐらい前まで、大きな家が1軒残っていたが、その人も山を下りてしまった。分校は、その大きな家のやや下手にあった」
 「まだ熊延鉄道の走っていたころは、釈迦院参りにはみんな釈迦院駅から歩いて登っていた。ここからなら5キロほどあって大変だった。昔は、こちらが釈迦院参拝のメインルートだった。釈迦院まで行くなら、幕で尋ねたらいい」という。
 幕川沿いの町道を自動車で登ると、谷川に沿った幕集落に出る。集落の入り口には、石段を組んだ上に小さなお堂がある。石段を登ると、内部には水神、弁財天、菅原天神、祇園神が仲良く並んで祀られている。説明書には「戦後、散在する神を一堂に集めた」と書かれていた。
 幕から奥は、狭い谷間に沿った簡易舗装の自動車道が続く。谷沿いの車道は、ところどころで、急傾斜のヘアピンカーブとなる。うっかりするとハンドルを切り損うほどの急カーブである。
 『砥用町史』によると、小田尾には、昭和42年9月年まで砥用小学校小田尾分校があった。最盛期には20戸が暮らしていた。当時の面影は、林道沿いの人家跡の石垣と、最後に残った廃屋にかすかに感じられるだけである。
 小田尾まで登ると谷がやや開け、周囲の稜線のつながりが見渡せるようになる。「水田はなかったからな」という、目磨の人の言葉を思い出したが、集落下の沢沿いに何枚か田んぼの跡らしいものがあった。
 「小田尾の人たちはどうやって暮らしていたんですか」との問いには、目磨でもはっきりとした回答が得られなかった。  周囲の稜線はすっかり造林地となっているが、集落跡に立つと、やはりここはコバ作(焼き畑)で成立した村だったと思えてくる。
 明治35年『大日本帝国陸軍測量』地図には、幕川の谷をはさんだ小田尾の対岸に、九折原(つづらばる)の地名がある。「つづらばる」とはなにか。「斜面を区切っていくつもの原(コバ作の畑)を作っていた」ことが推測できる。
 さらに、帝国陸軍の地図によると、九折原を登る山道は上で1本の尾根道と接続する。その尾根道は、五家荘仁田尾から朝日(わさび)峠を経て、一の谷、原町(砥用の中心地)へつながる、かつての山の交易路である。
 廃屋の前の林道を自動車で登ると、道は大きく右にカーブし、廃屋の上を横切る。さらに道路は左カーブするが、そのあたりで右下に廃屋と山神堂の屋根が見る。
 小田尾では毎年3月31日に「山神祭り」が行われていた。山神堂を清掃し、村の成人男子が集まって宴会を開いた。その山神堂も、今は人が訪れることもなく草に埋もれようとしている。
 小田尾を過ぎると、林道は悪路となり、幕川源流域の広がりが実感できるようになる。コバ作で百人の人口を養えるだけのボリュームがある谷である。
 林道はさらに登り、釈迦院川源流域と境を成す尾根に出る。ここには六地蔵堂(写真下左)がある。内部には、「昭和三十五年十一月 小田尾区 渡辺啓介」と彫られた6体の地蔵が並ぶ。
 釈迦院参りの人々の列も、六地蔵堂で休憩をとっていたのだろう。ここからは、娑婆と別れ、釈迦院に象徴される彼岸の地に入ることになる。私も六地蔵前で車を止め、歩くことにした。
 六地蔵から先は、釈迦院川の源流域を横切る林道となるが、しばらく先で林道が崩壊。人の気配もなくなる。林道下は伐採され、展望が効く。遠くには熊本平野と宇土半島。眼下には水守集落の棚田が小さく見える。
 しばらくで、釈迦院奥の院(写真下中)。ここで暮らす旧知のNさんと再会した。
 奥の院は釈迦院川の源流にあたる。釈迦院から自動車道が通じたおかげで、最近は奥の院前の湧き水を汲みに来る人がいる。それでも、ここまで足を伸ばす人はまれだ。
 Nさんにお茶をごちそうになり、休憩してから白山を目指した。
 奥の院からは、林道の登りが続く。尾根に沿ったジャリ道から白山権現堂へ。お堂前からは、スギ林の縁をたどる山道となる。山道の傍らには、ヘクソカズラ(写真下右)の小さな花が咲いている。
 白山権現堂から30分ほどで、2等三角点が置かれる頂上にたどり着いた。数年前に来た時にはなにもなかった山頂に、だれかが持ち上げたのであろう、石造りの地蔵さんが2つ。そして、山頂標識の脇には、賽の河原のように小石が積まれていた。
小田尾の六地蔵 釈迦院奥の院 白山登山道に咲いていたヘクソカズラ

■往路 六地蔵堂(30分)釈迦院奥の院(20分)白山権現堂(30分)白山山頂
■復路 白山山頂(20分)白山権現堂(15分)釈迦院奥の院(20分)六地蔵堂

第20回 東大矢から駒返峠と大矢野岳(熊本県山都町・南阿蘇村)

阿蘇氏本拠地・浜町と南郷谷を結ぶ古の峠道ひとり歩き

 旧矢部町(現山都町)大矢の国有林内に、御所塚(ごしょつか、写真下左)と呼ばれる不思議な3つの丘がある。大矢の土場(どば)から林道を登り、別の作業林道をたどると、その御所塚にたどり着く。
 御所塚は、景行天皇の墓との伝説が残るが、地元の古老は「昔の豪族の墓ではないかと言われている。私が小学生のころ、熊本大学の先生が来て御所塚を掘ったことがあった」という。ただ「今ならユンボで掘るところだが、そのころは人が鍬で掘るしかなかったので、深く掘ることができなかった。そのせいかもしれないが、由来のわかるようなものはなにも出てこなかったらしい」という。
 駒返(こまがえし)峠の南側、旧矢部町大矢地区では、阿蘇南外輪の稜線を指して大矢野岳と呼んでいた。現在の大矢野岳(標高1236m)は、長大な阿蘇南外輪山の最高標高点であるが、稜線全体の呼称が山名となった例である。また、大矢野岳の裾野に広がる広大な原野を、大矢野原と呼んでいる。現在の陸上自衛隊大矢野原演習場のあたりである。
 かつて、大矢から阿蘇南外輪にかけての山林は、細川藩の直轄支配する「御山」であった。大矢御山の植林は、江戸期・明和年間(1764〜1771)から100年間ほど続けられている。植林事業に腕を振るったのが、矢部手永御山支配役の木原才次(1734〜1809)である。
 才次は、宝歴7年(1757)、23歳の時に矢部手永山支配役代役、30歳で本役となり、旧朝日村、旧名連川村、旧中島村の3村にわたって植林事業にあたっている。
 昭和期に入ると、大矢での森林開発が本格化する。大矢から登った国有林には土場(どば)の地名が残る。「土場」は、山から切り出した丸太の集材所が地名となった例である。ここには、矢部営林署大矢製品事業所があり、林業に従事する人たちの住宅が20軒ほどあった。
 地元の人に尋ねると「大矢で切り出された材木は、木馬(きんま)で土場まで運び、そこからはトラックに積んで浜町まで下ろしていた」という。ただし、他地域の山林開発と同様に、戦前はトラックの代わりに馬車が利用されていた。
 大矢製品事業所が廃止されたのは、平成元年3月31日。ごく最近のことである。
 稲生野から5kmほど町道と林道を登ると、大矢国有林である。国有林内に入ると、すぐに小さな橋がかかる。橋を渡ったあたりが、かつての土場である。
 土場には材木を下ろした広場らしい空間が残っている。また、土場のすぐ上手には、山仕事の安全を祈った山の神(写真下中)が大切に祀られている。かつての住宅のあったのは、谷川に沿ったあたりで、現在は竹やぶとなっていた。
 一方、駒返峠への山道は、土場への橋の手前から始まる。山道に入ると、すぐに九州自然歩道の大きな看板が立つ。
 山道に入ると、スギ、ヒノキの植林地。林床にはツクシショウジョウバカマが群落を作る。山道は九州自然歩道に指定されているが、最近人が通った痕跡がない。しばらくで低い尾根に上がるが、そこにイチイガシの巨木が2本立っている。
 ゆったりとした尾根を進むと、自然林が増えてくる。ニシノヤマタイミンガサ、ツクバネソウ、フタリシズカが姿を現す。落ち葉の積み重なった山道には、イノシシの足跡が続く。それをたどるように、なだらかな尾根を登る。その先で、ミズナラの大木とヤマザクラが現れたかと思うと、自然林が切れ、再びスギ、ヒノキの林となった。
 登り口から45分。土場から登ってきた林道と再び出会う。林道を横切り、スギ林の中に入ると、コガクウツギの白い花が群落を作る。コガクウツギの花の香りが、スギ林の中にかすかに漂う。オニノヤガラ、ヤマジノホトトギスは、まだ花を開いていないが、ユキザサは実を付けている。自然林が増えると、イチヤクソウがぽつぽつと見えてくる。スズタケも増える。
 峠にかなり近くなったあたりで、地バチの巣箱が仕掛けられていた。箱には「小久保」の名が書かれている。ミズナラが増えブナが現れると、駒返峠は近い。
 山道を歩き始めて1時間半。ようやく阿蘇南外輪山縦走路に合流した。駒返峠(写真下右)は、縦走路を左にすぐ。踏み固まれた峠は、樹林に覆われて昼間でも薄暗い。首の落ちていた峠の地蔵さんに、新しい首が据えられていた。
 駒返峠は、阿蘇氏の本拠地である南郷谷と浜町を最短で結ぶ重要な峠である。南郷谷側にも踏み跡が残るが、こちらは急坂の連続である。
 駒返峠から大矢野岳までの縦走路は、これまで何度となく歩いたなじみの尾根道である。梅雨の合間の曇り空の下、自然林にはさまれた尾根道をひたすら歩く。アップダウンは激しくないが、長い登り長い下りが何度も繰り返される。どこまで歩いても、似たような風景が現れる。自然林は美しいが、不摂生の体にはこたえる。時々、竹の杖にすがるようにして息を整える。
 そんな時に限って、大矢側からチェンソーの断続的な音、南阿蘇側からはグリーンロードを登る自家用車のエンジン音が風に乗って届く。ヤマボウシの白い花とヤマツツジの薄紅色の花が、濃緑色の縦走路ではよく目立つ。
 駒返峠から2時間。ようやく、こじんまりした大矢野岳山頂にたどり着いた。
東大矢の御所塚 土場の山の神様 樹林に囲まれた駒返峠

■往路 九州自然歩道入口(45分)林道との出会い(50分)駒返峠(120分)大矢野岳
■復路 大矢野岳(120分)駒返峠(30分)林道との出会い(30分)九州自然歩道入口

第19回 馬見原から鏡山へ(熊本県山都町・宮崎県五ヶ瀬町)

脊梁の十字路で栄えた商都から古戦場へ

 馬見原(旧阿蘇郡蘇陽町・現上益城郡山都町)を訪れたのは、6月初旬であった。すでに、山間の棚田では田植えが終わっていた。
 馬見原中心街から延岡に向かう国道218号の急坂を登ると、左手に旧国道の入口が分かれる。旧道は、国道の下をガードでくぐり、新国道と逆の方向に向かうように、鏡山の中腹へと延びる。
 山腹に開かれた畑には、ピーマン、トマト、タマネギ、トウモロコシ、キュウリ、ジャガイモが植えられる。いずれも自家用のもの。だが、その奥のビニールハウスには、つるなしインゲンが定植されている。畝間には敷きワラが施され、こちらは出荷用の商品のようである。
 自動車が一台も通らない旧国道の脇に「馬見原小学校学校林」の立派な石碑(写真下左)が残っていた。石碑の碑文には「熊本県阿蘇郡馬見原町立馬見原小学校 貴校は多年学校林造成に尽力し学校植林運動に貢献するところ大である。よってこれを表彰する。昭和二十五年四月一日 文部大臣高瀬荘太郎」と刻まれている。
 馬見原小学校の前身である馬見原尋常小学校は、明治9年10月に開校されている。明治初期、馬見原地区で唯一の教育機関であった。明治38年、地元の材木商の飯干唯平が自分の私有林に植林をさせたのが「馬見原小学校学校林」の始まりである。
 馬見原の繁栄は、江戸中期から始まったとされる。
 江戸期、馬見原には、鞍岡・椎葉につながる人吉道、三田井・延岡につながる延岡道(日向往還)、浜町・御船に通じる熊本道(日向往還)、阿蘇高森と結ぶ馬見原街道が集まっていた。まさに九州中央部をつなぐ街道の十字路であった。天和元年(1681)には、細川藩から在町として認められている。最盛期には10数軒の造り酒屋が軒を並べていた。
 「馬見原小学校学校林」の石碑を過ぎると、右下に水源地の真新しい施設があり、その脇に場違いのように苔むした水神様が祀られる。
 さらに旧道を進み、大きなカーブを曲がると、右手奥に鏡山(標高916.8m)の姿が見えてくる。その先、今度は左手にブロック作りのお堂があり、中に5体の地蔵様が祀られる。右端の1体は明らかに馬頭観音様。かつての馬見原は、馬の背に荷物を積んだ駄賃付けの人らでにぎわったことを思い出した。石像には「大正十年九月」の日付が彫られている。
 旧国道を歩き始めて50分。ようやく林道鏡山線の分岐点に到着した。簡易舗装の林道を登ると、五ヶ瀬川沿いの景色が見渡せるようになる。鞍岡につながる谷をはさんで、対岸奥には黒峰(標高1283.0m、写真下中)、小川岳(標高1542.1m)、祇園山(標高1307.1m)が見える。鏡山の裾野が西側に広がるあたりまで来ると、鏡山集落の人家が見下ろせる。ここも田植えが終わったようだが、まだ茶摘みは行われていない。シイタケ栽培用にクヌギが大量に伏せられている。
 鏡山集落の上で、林道鏡山線は終点。そこからも林道は続くが、道幅が狭くなる。ここまで登るとスギ林が減り、ヒノキが増えてくる。陽が昇り、気温が上がる。首筋にうっすらと汗がにじむ。
 山頂までのつづらの林道を無言で登る。ヒノキ林の間には、雑木林も混じる。ヤマジノホトトギス、シシウド、フキ、アザミが多いが、ウドもあり、フタリシズカの花も咲く。林の切れたあたりからは、馬見原市街地(写真下右)と阿蘇高森まで続く高原地帯が広がる。
 林道を歩き始めて1時間。鏡山の山頂部に出た。明るい空の下、テレビ中継施設と無線中継局、携帯電話中継局が点在する。すぐ、左手には「鏡山西南戦争慰霊碑」が建つ。碑文には、鏡山の戦いの経過とともに戦死者の名が彫られる。
 鏡山の戦いについては、薩軍側、官軍側ともいくつかの記録・文書が残されている。
 薩摩側から西南戦争を記録した『薩南血涙史』(加治木常樹著)では、鏡山の戦いを次のように記している。
 「五月十日に矢部を退いた薩軍は、高城(桐野)七之丞を三田井(高千穂)方面の指揮長にして、この方面に奇兵十六番中隊(小浜氏興)、正義五番中隊(久永喜兵衛)、正義六番中隊(肥後荘之助)、正義七番中隊(橋本諒助)、中津隊(増田栄太郎)、延岡隊(大島景捷)の6隊を配した。中津隊を先鋒として、官軍の熊本鎮台堀江芳介中佐が守る馬見原を攻める。一方、官軍は鏡山、笠部越などの要地に土塁を築いて守備を固めていた。
 5月13日、薩軍は三田井方面から馬見原方面に進軍する。地元民の案内で夜間鏡山山頂を目ざした。薩軍のうち正義六番中隊は、笠部越から官軍の背後に向かう。中津隊は、岩上支道から馬見原方面に迫る。正義五番中隊、正義七番中隊、奇兵十六番中隊、延岡隊は、鏡山の官軍土塁を攻撃した。攻撃で官軍の29の土塁が落とし、官軍は総退却する。各隊が馬見原に攻め下ろうとしたところで、坂元の本営にいた高城七之丞から『戻れ』との伝令がある。それを受けて、各隊は三田井方面に戻る」
 一方、『蘇陽町史』には、馬見原の商人・八田薫次の記録が掲載されている。それによると、「鏡山口にいた官軍は40〜50名ほど。鏡山と上ノ川、阪口、新埋葬地といった地点で薩軍と激戦となる。薩軍は敗退し、延岡道を通り三田井に引き揚げる。途中、加勢群(かせむろ)の人家に放火した」という。
 また、官軍側の『陣中日記』などでは、「官軍は鏡山の防衛線を破られたが、反撃して薩軍を三田井方面に追いやった」という内容である。
 このように、鏡山での戦いでは、一時的に薩軍が官軍の防衛線を突破して馬見原に迫るものの、官軍の反撃で延岡道を日向方面に退却したのが事実に近いようだ。
 鏡山頂上には3等三角点が置かれるが、「鏡山西南戦争慰霊碑」からさらに歩いて10分ほど。建設省五ヶ瀬中継局裏手の林に目指す三角点がある。
馬見原小学校林の記念碑 鏡山集落から見る黒峰 山頂近くから馬見原が見下ろせる

■往路 旧国道入口(50分)林道鏡山線起点(60分)鏡山山頂部「鏡山西南戦争慰霊碑」(10分)鏡山三角点
■復路 鏡山三角点(10分)鏡山山頂部「鏡山西南戦争慰霊碑」(50分)林道鏡山線起点(40分)旧国道入口

第18回 城尾山(熊本県上益城郡山都町)

日向往還を見下ろす西郷軍の砲台か、それとも山城跡なのか

 県道沿い小司原バス停から、栃木(とちのき)集落へ通じる町道を歩き始めると、近くで老人が畑の手入れをしていた。城尾山への道を尋ねると「道なりに行くといい。頂上に鉄塔が建っているからそれが目標になる。でも、本村(栃木)でもう一度尋ねた方がいいが」という。
 畑から見える小さな祠を「あれは」と尋ねると「手前が粟島さん(写真下左)、奥が妙見さん」だという。「粟島さんは、宇土の粟島さんを分家したもの」と、ちょっぴり得意げに話してくれた。ついでに「城尾山の山頂からは、茶畑を開く時にたくさん土器が出た」とも語ってくれた。
 「城跡があると聞いてきたんですが」と重ねて尋ねると「西南戦争の時に、西郷軍が山頂に大砲を据えて、日向往還を来る官軍を狙ったらしい。城跡があるとは聞いてない」と話してくれた。
 妙見さんまで行くと、脇には涸れかけた湧水がある。これも「すぐ横の家で泉水を掘ってから水量が減ってしまった」と、先ほどの老人が教えてくれた通りである。粟島さんと妙見さんの写真を撮ってから町道を登ると、大きなカーブが連続する。あたりの棚田は、菜の花が満開(写真下中)。カーブを過ぎると、栃木の本村が見えてくる。
 栃木集落に入り振り返ると、背後に間谷山(標高812m)が長々と伸びている(写真下右)。栃木は、標高400m。意外と標高がある。集落内では、家の新築工事があり、その奥の高台に観音堂。観音堂前で町道は左にカーブし、城尾山へ繋がる農道となる。
 水神様の石碑を過ぎると、左手に使わなくなった炭焼き窯があり、その先からは谷沿いに農道が伸びる。谷の底には、棚田とビニールハウスが続く。ビニールハウスには、ピーマンの苗が定植されている。農道脇では、すでにワラビとゼンマイが芽を出している。そういえば、栃木の農家の庭先にもゼンマイが干してあった。
 農道を進むと、谷が狭くなりクヌギ林や竹林、スギ林が現れる。奥で左に小星(こほし)への分かれ。ここで再び地元の人に道を尋ねる。「右の道を行くと、先で左右に分かれる。右は中島小学校の横に出る道。左に行くと、ドコモの鉄塔が見えるので、それを目標に行くと山頂」と教えてくれた。教えられた通りに農道を歩くと、モウソウ山が電柵や竹垣で囲まれている。足元を見ると、イノシシがタケノコを掘り上げた跡がある。
 竹林を抜けると、正面のなだらかな斜面に茶畑と鉄塔が見えてきた。鉄塔までは狭い農道が通じ、そこから茶畑の脇を南に辿ると、茶畑が切れ、その先の雑木の下に三角点が置かれている。ずいぶん昔に設置されたのか、四隅とも角が欠けてしまっている。一方、城尾山の山頂は、鉄塔から三角点とは逆に北へ辿る。尾根には、かつて小星とつながっていた峠道の痕跡が残る。
 小星への峠跡を横切り、尾根の踏み跡を北へ辿ると、すぐに城尾山の山頂。三角点のあるピークより、こちらがやや高い。山頂部は雑木林に覆われているが、整地した痕跡がある。そして、山頂部を囲むように浅い掘割を巡らした跡が残る。山頂の雰囲気からは、山城跡なのか、大砲を据えた跡なのかはわからない。
 ただ、山頂からは、雑木と植林に阻まれてはっきりと見えないものの、長谷から水ノ田尾につながる滑川が眼下である。そして、滑川をはさんだ対岸の尾根には、確かに日向往還が通り、浜町(現山都町)へと繋がっていたのである。 栃木の粟島様 満開の菜の花畑 栃木から振り返ると間谷山の稜線が

■往路 県道沿い小司原バス停(40分)栃木観音堂前(30分)小星との分かれ(30分)ドコモ鉄塔(10分)城尾山三角点(10分)ドコモ鉄塔(10分)城尾山山頂(10分)
■復路 城尾山山頂(10分)ドコモ鉄塔(20分)小星との分かれ(20分)栃木観音堂前(30分)県道沿い小司原バス停

第17回 山江村高岳と石灰岩大岩峰(熊本県球磨郡山江村)

肥後峠と球磨盆地、万江川を見下ろす大展望岩へ

 戦国時代、人吉藩相良氏は八代を支配するために、球磨川支流・万江川沿いに軍用路を設けていた。「庵室路」(あぜち)と呼ばれていたという。
 そのルートについては、はっきりしていない。いくつか説があるという。
 一つが、人吉から万江川沿いに照岳(てるがく、標高506m)に上がり、尾根伝いに肥後峠に出る。肥後峠からは、鮎帰(旧坂本村)に下り、球磨川沿いに八代に出るルート。
 もう一つが、照岳から白岩山(標高1002m)中腹を横切り、鍋割峠から神瀬(球磨村)に出る。神瀬から球磨川を渡り、佐敷(芦北町)を経て、海路八代に至るルートである。山江村には、人吉藩が八代とつなぐ大切なルートがあった。
 万江川沿いの県道を人吉市から遡り、山江村吐合(はけあい)で支流の宇那川沿いの村道に入る。狭い谷に沿って、自動車道が続く。
 吐合から自動車で5分で、尾寄崎(およりざき)の集落。尾寄崎にはヤマメ養魚場があり、そこから奥が宇那川林道となる。
 この時期(3月初旬)山江村高岳(標高1189.3m)と、それに続く石灰岩大岩峰(標高1064m)を訪れたのは理由があった。
 高岳は、仰烏帽子山(標高1301.8m)から連なる石灰岩の稜線上にある。石灰岩大岩峰も同様である。仰烏帽子山は、フクジュソウ群落で知られる。仰烏帽子山に続く高岳〜石灰岩大岩峰の自然林稜線にも、フクジュソウが自生している…と想像したからである。
 尾寄崎のヤマメ養魚場から、宇那川林道を車で20分。林道は、仰烏帽子山と高岳を結ぶ主稜線を越える。峠には、仰烏帽子山宇那川登山口がある。
 林道は、さらに稜線の西側を等高線に沿うように高岳に向かう。林道からは、万江川源流域の谷をはさんで肥後峠の稜線が見渡せる。仰烏帽子山登山口から車で10分。林道は再び主稜線を東側に越える。ここが、高岳と石灰岩大岩峰への登山口である。
 結論から言うと、フクジュソウはなかった。
 登山口からスズタケの切り分けを南に向かうと、うっとりするような自然林となる。稜線を伝うと、最初のピークに「明治三十三年一月」の日付の彫られた石柱(写真下左)。そこから下るとなだらかな自然林の鞍部となる。鞍部を過ぎると、再び「明治三十三年一月」の石柱。
 主稜線は、石柱のある第2ピークから左に折れる。その先は、石灰岩露頭のゴツゴツとした尾根となる。尾根上からは、遠く球磨盆地の一部が見え、そのはるか奥には霧島連山の姿が望めた。
 稜線がやくし山(標高999.1m)に向けて下り始めるあたりから、石灰岩大岩峰の姿が見え始める(写真下中)。かなり急峻に見えるが、危なげなく頂上に立つことができる。
 大岩峰への痩せた尾根をたどると、あっけなく頂上。ピークからは、万江川の流れと、それにまとわりつくようにのびる高速道路が眼下である。残念ながら、石灰岩大岩峰にも、その途中にもフクジュソウの姿はなかった。
 一方、高岳も石灰岩の露頭に覆われた自然林の山である。登山口からは、山頂も間近(写真下右)。ゆっくり登っても20分ほどで山頂にたどり着く。ここにもフクジュソウは見あたらなかったが、主稜線一帯にヤマシャクヤクの芽が見られた。 第1ピークに最初の石柱がある ようやく大岩峰が見えてきた。右手はやくし山 今度は峠から高岳に向かう

◆石灰岩大岩峰 ■往路 登山口(15分)石柱のある第1ピーク(20分)石柱のある第2ピーク(30分)石灰岩大岩峰 ■復路 石灰岩大岩峰(50分)登山口
◆高岳 ■往路 登山口(20分)高岳山頂 ■復路 高岳山頂(10分)登山口

第16回 間谷山(熊本県上益城郡山都町)

三つの山頂から弘法大師伝説の地へ

 かつの間谷山(まんたんやま、写真下左)は、狩りの場として大切な山であった。細川藩時代、間谷山には、細川藩主がよく狩りに訪れていたとされる。
 例えば、8代藩主細川斉茲(なりしげ)が、寛政3年(1791)、間谷山で狩りをしている。そのときに御本陣としたのが、備前屋(現在の通潤酒造)である。また、10代藩主細川斉護(なりもり)も、たびたび間谷山に狩りに訪れ、間谷山東側の原村(現山都町原)の庄屋に立ち寄っている。
 一方、間谷山の南側、標高600mの猿渡村(現山都町猿渡)中山(なかやま)には、「弘法大師杖立ての井戸」(写真下中)がある。言い伝えによると、この地を訪れた弘法大師が、地面に杖を打ち立てたところ、こんこんと清水が湧き出たという。同様の伝説は、全国各地にあるが、近くでは甲佐町鹿里(かざと)にも、同じ言い伝えが残されている。
 かつて中山の清水の脇には、人家があり、山人の暮らしがあった。現在は、ただ古い納屋と倉庫、茶畑のみが残されているだけである。
 間谷山の山名は、山の北側、万谷(まんたん)からきているとされる。万谷とは、「小さな谷がたくさんある」との意。とくに北側斜面には、小さな沢がいくつも流れくだり、そこから万谷(間谷)という地名が生まれたと想像される。
 間谷山は、独立峰であるが、6qにも及ぶ長大な尾根が、ほぼ東西に一直線に伸びた独特の山体をしている。そのおかげで、山頂(標高812m)を中心に、東西に2つの三角点ピークを持つという特徴がある。
 現在は、主稜線の9合目を縦断する間谷山林道のおかげで、容易に山頂に立てるようになった。山都町島木から県道島木上寺線で原に向かうと、かつての原村と島木村との境から間谷山林道が分かれる。
 林道は、主稜線に向けて一気に高度を上げる。稜線9合目まで上ると、「熊本県立矢部高等学校万谷演習林」の木柱が林道脇に立つ。ここから、稜線の林の中を登ると間谷山東峰(標高798.1m)である。林道からわずか6、7分の距離。山頂には3等三角点がある。
 東峰を過ぎると、間谷山林道は、主稜線直下をひたすら西へと伸びる。林道の北側には、島木、七滝、金内の丘陵地帯をはさんで、阿蘇南外輪の広大な斜面が正面である。その西側奥には、熊本平野と金峰山塊の姿がくっきりと視界に入ってくる。
 東峰から林道を2qほどで、万叟(まんそう)から伸びる作業林道との合流点。三叉路で林道と分かれ、稜線に分け入る。稜線のすぐ脇には林道が通じているため、右下の林道をチラチラながめながら尾根の踏み跡を伝う。尾根の南側には、うっそうとした雑木林が残る。
 ハイノキやミヤマシキミ、タブノキの点在する雑木とヒノキ職隣地の境を20分。間谷山山頂である。樹林に囲まれ、展望はない。なんの変哲もない山頂だが、その代わりに人の気配もほとんど感じられない。間谷山稜線では、この地点が812mの最高峰であるが、三角点は置かれていない。
 数年前まで間谷山林道は、山頂直下で終点だったが、現在は西側のピークを過ぎた御船・山都町境まで延長工事が進んだ。西側の三角点ピークへは、林道を利用して、三角点南側を巡る作業林道から一気に登る。アカマツ混じりの雑木林の急斜面を登ると、すぐに主稜線。3等三角点の置かれた西峰山頂までは、作業林道から10分の距離である。
 その日は、間谷山林道から、南側の万叟・諏訪へと下った。万叟まで下ると、日当たりのよい南斜面が一面の茶畑となっていた。茶畑の脇には山の神様(写真下右)が祀られ、茶畑からさらに下ると、古木のナシ畑。人家は、ナシ畑の脇にある。
 諏訪は、万叟からさらに下ったところ。ここも万叟同様、南斜面に開かれた山間の小集落である。諏訪では、茶畑で地元の人が作業中であった。そして、手入れの行き届いた茶畑から正面に見えるのは、延々と連なる九州脊梁の峰峰である。
山都町水増から見る間谷山 杖立ての井戸 万叟の山の神様から間谷山山頂を望む

第15回 飯田山と船野山(熊本県上益城郡益城町)

中世肥後の山岳信仰と日羅上人

 岩戸川に架かる「ざめき大橋」が開通したことで、岩戸川沿いの自動車道が整備された。里山通信社のある吉無田高原・田代方面と岩戸川下流の飯野(益城町)とが直結することになった。岩戸川から、飯田山(標高431.2m、写真下左)と船野山(標高307.8m)への新ルートを登ってみた。
 岩戸川は、飯田山と船野山を分けているが、上流域は御船町田代となり、源流は朝来山(あさこやま、標高464.5m)である。飯田山、朝来山とも、中世期肥後の天台宗の拠点であった。飯田山には常楽寺があり、そして朝来山には福田寺(ふくでんじ)があった。
 岩戸川沿いの益城町道から、田んぼ脇の山道に下ると、すぐ左右に分かれる。ここを右にとり、岩戸川を渡ると、暗いスギ林の中に導かれる。山道は、小さな沢沿いに登る。その奥で沢を横切ると、東側の小尾根に登る。
 小尾根に上がると、九州電力の送電線熊本南熊本線の100号鉄塔が建っていた。尾根は一面切り払われ、カラスザンショウの群落地となっている。
 100号鉄塔からは、尾根伝いの巡視路を登る。すぐに雑木林に入り、そこを抜けると101号鉄塔である。ここまで登ると、背後に船野山の姿が現れる。岩戸川の谷の切れ目からは、益城の平坦地。そのかなたには、熊本市の東部清掃工場が見える。
 101号鉄塔からは、尾根上の巡視路をまっすぐ登る。送電線下の伐採地を抜けると、ヒノキ林。その先で棚田跡が現れる。その奥には、クロマツの大木が3本。棚田の傍らには、イノシシ罠が仕掛けられている。クロマツの脇を過ぎると、飯田集落から登ってきた林道飯田山線に飛び出る。ここまで、町道から45分の距離である。
 舗装林道を登ると、正面に飯田山山頂部が見えてくる。しばらくで、土山からの旧参道との出会い。ここには、「本堂より四丁」の真新しい普賢菩薩の石像が建つ。その先が、常楽寺手前の「よめご坂」。急坂を登り切ると、103号鉄塔。常楽寺山門下の石段(写真下中)は、すぐ先である。
 伝説では、飯田山常楽寺は敏達天皇12年(583)、百済の僧日羅上人によって開かれたとされてきた。だが『益城町史』では、ずっと時代が下がった12世紀中頃の開基だとしている。開基したのは天台宗の僧真俊。以来、常楽寺は肥後天台宗の中心地として栄えるが、天正13年(1585)、島津勢によって焼き払われる。
 天正13年は、近くの御船城や赤井城などが島津軍によって攻め落とされた年である。その後、常楽寺は永らく荒れ果てるが、寛永4年(1627)僧豪潮によって再興される。しかし、戦後になって再び衰退、門前にあった集落も麓へ移転している。
 林道を歩き始めて25分、常楽寺境内の観音堂(本堂)にたどり着く。山頂へは、観音堂脇から急な山道を登る。最近山頂一帯が伐採され、以前とは違うルートとなった。ただ、山道が山頂手前の白山(日枝)神社前に出るのは、以前と同じである。
 町道から登り初めて1時間15分。久しぶりの飯田山山頂である。かつて一帯を覆っていた暗いヒノキ林が切り払われ、なだらかな山頂部から、ビルが林立する熊本市街地が見えるようになった。頂上には、1等三角点が置かれる。
 船野山の北山麓・木崎集落に、日羅上人ゆかりの荒帆神社(写真下右)がある。荒帆神社の祭神は、住吉大神と48体の神像だとされる。神像は、日羅上人が百済から渡来する時、同行した百済人だとされる。伝説では、当時木崎まで海岸線が入り込んでおり、渡来人は嵐で船が転覆、木崎にたどり着く。転覆した船が船野山になったとされる。船野山を地元では船底山と呼ぶのも、そんなことからきている。
 岩戸川沿いの町道から、飯田山方向と逆に北への山道をたどり、船野山山頂を目指す。これも、九州電力熊本南熊本線の巡視路である。
 巡視路はスギ林の中を登るが、すぐに右手から登ってきた簡易舗装の作業道とぶつかる。左にすぐで、作業道も終点。そこからは雑木林の中の山道となる。この季節、雑木林にはヤブコウジの赤い実が点々と続く。県営射撃場との境の鉄網に沿って広い山道が続く。登り切ると、左右に山道が分かれる。右に入ると九九号鉄塔で終点。鉄網に沿った左の山道をたどると、木組の階段となる。
 階段を登り切ったあたりで、巡視路は右の雑木林に入る。カシ中心の雑木の急斜面を登ると、98号鉄塔。その上が伐採地で、抜けると再び雑木林となり、荒れた業道とぶつかる。作業道を左にたどると、97号鉄塔手前で山頂に向かう舗装林道に出会う。
 舗装林道をゆっくり登ると、益城町船野山無線局の施設。山頂はさらに東に向かい、左に分かれる山道から右手のクヌギ林に入った地点。3等三角点が山頂の目印である。
船野山中腹から見る飯田山 常楽寺山門への石段 日羅上人ゆかりの荒帆神社

飯田山 ■往路 岩戸川町道登り口(20分)100号鉄塔(10分)101号鉄塔(15分)林道飯田山線(15分)よめご坂(10分)常楽寺本堂(15分)飯田山山頂 ■復路 飯田山山頂(10分)常楽寺本堂(50分)岩戸川町道登り口
船野山 ■往路 岩戸川町道登り口(10分)99号鉄塔との分岐点(15分)98号鉄塔(20分)舗装林道(15分)船野山山頂 ■復路 船野山山頂(25分)98号鉄塔(10分)99号鉄塔との分岐点(10分)岩戸川町道登り口

第14回 八丁峠から黒山へ(熊本県八代市泉町)

海東と下岳を結ぶ“消えた塩の道”を歩く

 旧八代郡泉村(現八代市泉町)下岳と旧下益城郡小川町(現宇城市小川町)海東(かいとう)との結びつきについては、「里山通信」13号「歩く見る聞く」で述べた通りである。
 小川から下岳へは、八丁峠(八丁越)、新道峠、榎坂の3つの峠道によって、塩や生活物資が運び込まれていた。さらに、これらの物資は氷川をさかのぼり、柿迫、栗木、さらには五家荘まで運搬された。
 このうち、最も重要な峠道であった八丁峠から、黒山(標高562.8m)まで単独行をしてみた。
 八丁坂を登り切った八丁峠は、下岳宮の崎と東海東石神を結んでいた。現在の八代市立泉第一小学校の裏手が、下岳側の登り口にあたる。ここには、宮の崎公民館があり、その脇に「六地蔵」(写真下左)と「清正公」が並んでいる。
 氷川沿いの自動車道が開通するまで、宮の崎は、小川から峠を越える人の往来が絶えることがなかったという。海東からの玄関口であった。
 「清正公」は、加藤清正を祀る。「所願成就」「厄よけ」に御利益があるとされる。案内板によると、宮の崎の「清正公」は、文化10年(1813)の作だという。清正公ゆかりの下益城郡中央町(現美里町)坂本の古刹・法福寺より遷祀されたと伝えられる。
 一方、「六地蔵」は、街道の辻や分岐点などに祀られている。六地蔵の意味について、案内板には次のように解説されている。「人は六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天)のいずれかの境遇に身を置き、悩み、苦しみ、救済を求めているが、それに救いの手を伸ばしてくれる6体の地蔵菩薩(檀陀、宝珠、宝印、持地、除蓋障、日光)を祀る」という。
 宮の崎「六地蔵」は、「苦患救済」「子育て支援」に御利益があるとされる。肥後の「六地蔵」は、六面石灯籠の各面に彫り込まれることが多いが、宮の崎では、六体の木造彫刻である。
 国道から分かれ、泉第一小学校裏手を巡る自動道をたどると、かななぎ谷で作業林道が分かれる。谷沿いの林道を十分ほど歩くと、林道は終点。途中砂防ダムがあるが、谷沿いには石垣の跡が残り、かつては山奥まで棚田が開かれていたことがうかがえる。
 林道終点からは、か細い踏み跡が続く。踏み跡は、スギ植林地を抜けるが、その奥にも棚田の跡が残る。かななぎ谷では、八丁坂に沿った標高200m地点まで稲作が行われていたらしい。かつての峠道は、棚田の石垣の間を登る。その先で傾斜の急な堀切道となるが、そこを抜けると峠道もややなだらかになる。
 堀切道を登り切ったあたりで、荒れた峠道に黒色の薬缶が埋もれていた。掘り出してみると、それほど古いものでもないが、底に穴が空いている。黒光りしているのは、直接たき火の上やいろりに掛けてあったせいである。山仕事の時に使ったものらしい。
 古い峠道は、すっかり荒れ果てていた。人の足跡もなく、もう何年と人が歩いていないようだ。雑木や倒木でふさがれた堀切道をどうにかたどってみたが、谷奥で峠道の痕跡がかき消えた。しかたなく、右手のヒノキの尾根をたどることにした。
 ヒノキの支尾根を登ると、雑木の茂った石灰岩の主尾根に出た。主尾根には、九州電力中九州大平送電線24号鉄塔が建っている。鉄塔の脇には、なぜか柿の木があり、実が成っている。「もしや」と思い、実をかじってみると、やはり渋柿であった。
 鉄塔から、尾根を南西にたどると、ようやく八丁峠である。作業林道から1時間20分の距離である。八丁峠には、傾きかけた石造りの祠(写真下中)があり、中には木造の釈迦像らしきものが祀られている。時には、ここまで人が登って来るのか、御神酒が供えられている。だが、それ以外には人の気配はない。
 峠には、八丁坂の峠道が横切るが、人の足跡は見られない。ただ、東海東側からは、鉄塔巡視のために時々人がのぼってくるのか、かすかな踏み跡が残っていた。一方、下岳側は風倒木が峠道をふさぎ、とても人が通れる状態ではない。
 黒山(写真下右)までは、24号鉄塔からつながる主稜線をたどる。峠から先ほどの24号鉄塔に戻り、あとはひたすら主稜線を黒山までたどる。石灰岩の露頭地帯を抜けると、雑木とスギ植林地に挟まれる。町村境の赤い杭を頼りに、八丁峠から一時間で黒山山頂である。
 八丁峠から山頂までは、獣道程度。山頂手前の傾斜はやや急だが、頂上はなだらかな雑木林の中である。ここには3等三角点が置かれていた。
■往路 かななぎ谷作業林道入口(林道を歩いて10分)作業林道終点(80分)八丁峠(60分)黒山山頂
■復路 黒山山頂(45分)八丁峠(60分)作業林道終点(林道を歩いて10分)かななぎ谷作業林道入口。
宮の崎の六地蔵 八丁越の石作りの祠 和小路から見る黒山

第13回 上西・宮の平から玄武山(宮崎県高千穂町)

吉村惣右衛門の山城跡に登る

 高千穂町上野(かみの)の竜泉寺・上野神社から上野川沿いの町道をしばらくで、原野(はるの)集落となる。原野では、棚田の稲刈りも終わり、架け干し作業が忙しい。
 町道から分かれて原野の里道を登ると、丸太で組んだ素朴な鳥居が現れる。鳥居をくぐり、簡易舗装の林道を登ると、谷の脇に小さな社がある。赤川権現である。内部には、木造の男神像が4体、女神像が3体、そして石造りの山の神が1体、合わせて8体の神様が祀られている。
 社の脇には、パイプから冷水が蕩々と流れ出ているが、これはすぐ横の赤川浦谷の谷水である。赤川浦谷は、玄武山(標高974.2m)と赤川浦岳(標高1231.9m)を分けながら、赤川浦岳に突き上げる谷である。もともと水量が乏しいが、赤川権現のしばらく上流で涸れ谷となる。
 赤川権現の裏には岩棚があり、その下にも石造りの小さな男神像が祀られている。そして、その前には、青銅製の鏡が置かれ、脇には鏡石らしい丸石と、やはり小さな毘沙門天の石像が並んでいる。
 赤川権現の前の林道を登ると、しばらくで林道終点。そこから谷に沿って古い山道が続く。山道を1時間ほど登ると、炭焼窯跡が2つ現れる。山道はそのあたりで消える。ただ、スギ木立の間から上空を望むと、やや後方に玄武山の岩峰がチラリと姿を見せる。
 玄武山は、地元では城山と呼ぶ。吉村惣右衛門の玄武城があったことからの呼び名である。
 吉村氏は、筑前国秋月城主秋月種実(たねざね)の一族だという。吉村惣右衛門の実父秋月種員は、秋月家が豊後大友家に攻められた時、高千穂に逃げ延びたとされる。当時、高千穂を支配していたのは三田井家であるが、三田井家は高千穂十八村の一つ田原村を与え、客分として遇している。
 玄武城が落城したのは、天正6年(1578)3月28日。延岡土持氏攻めに豊後大野から南下して大友宗麟の別働隊によって、攻め落とされている。
 上野神社から、上西(かみにし)へ向けての舗装道路を登ると、正面右手に玄武山の岩峰が見えてくる。上西の最奥の人家までは、棚田と段々畑が続く。
 上野神社からおよそ20分。道路脇に三体の小さな石仏が祀られている。地元で尋ねると「お大師様」だという。また「すぐ向こうに見える鳥居の奥にあるのが、お稲荷様だ」と教えてくれた。いずれも収穫の神様で、地元では大切に祀られている。
 「お大師様」のすぐ先で、舗装道路はとぎれ、あとは山道となる。上西からの山道は小さな尾根を越え、沢筋に入っていく。その奥は暗いスギ林となり、さらに登ると山道は伐採地につながり、その奥で再びスギ林に入る。
 最近登る人も途絶えたのか、伐採地もスギ林の中も踏み跡がとぎれ気味。赤テープと随所に立てられる「玄武山へ」の標識が頼りとなる。
 上西から50分ほどで、やせた支尾根にあがる。稜線からは、左手に主尾根、右手奥に玄武山の岩峰が姿を現す。眼下には、上野川の谷を挟んで愛宕山の稜線、その奥は三尖、黒岳、親父山となる。
 スズタケ混じりの尾根をまっすぐ登りつめると、15分ほどで玄武山の主尾根に這い上がる。あとは、尾根に沿って山頂を目指すだけである。
 岩の多いやせ尾根を伝う。その先、尾根を平らにならした部分が3段続く。かつての玄武山城の一部である。さらに登ると、ヒノキの植林された300坪ほどの平場となる。城の中心地であった地点である。
 平場の奥には、高さ6、7mほどの岩壁があり、ここに玄武城の由来を記した碑文が刻まれるが、いつの時代のものか不明だという。刻まれた文字も、すっかり風化し、ほとんど判読できない(写真下左)。
 ここから先が、玄武山の核心部となる。岩峰をいくつか乗り越えることになる。かつては、岩峰をよじ登り、山頂に向かったが、現在はロープが下げられている。碑文跡から20分。4等三角点の置かれたピークに上がる。
 山頂は、その奥。いったん鞍部に下り、岩壁の左側を巻いて、裏側から岩峰の上に出る。山頂には、「天文六年」の日付が刻まれた石造りの祠が祀られている。
 眼下は上野の集落。その南側が高千穂市街地。西側は高森町野尻の広大な高原地帯となる。
 一方、玄武山の西側麓、旧田原村宮の平集落(写真下中)に熊野神社がある。今から800年前、人皇88代後嵯峨天皇の時代に、紀州熊野から勧請されたとされる。天正15年(1587)に現在地に社殿が建立される。しかし、宝暦6年(1756)に焼失、2年後の宝暦8年に田原村庄屋矢津田吉左衛門によって再建される。内部には、座高70pの木彫の神像がある。
 その熊野神社の上流1qに大岩屋があり、その下に熊野神社上宮(写真下右)がある。祭神は、紀州熊野から下向した熊野失須美(ふすみの)神、速玉男之(はやたまおの)神、熊野家都御子(かつみこの)神を祀る熊野三権現とされる。
 熊野神社石段下から左に斜めに登る作業林道を歩くと、集落の上を迂回し谷奥へと向かう。砂防ダム上で林道は終点。そこからは、谷の右岸に沿った山道となる。
 その奥、土砂の堆積した古い砂防ダムが2つ。脇を抜けてさらに登ると、谷に大きな平石が横たわる。その先、右の小沢に玄武山への登山ルートがつけられている。
 熊野神社上宮は、玄武山への別れを直進する。しばらく先で谷の右岸を斜めに上がる。さらに小さな尾根を巡り、赤川浦岳側の小沢に沿って登ると、巨大な岩壁が現れる。岩壁の上からは、山水がしたたり落ちる。その脇を抜けると、上宮である。
 ○上西ルート ■往路 上野神社(20分)上西集落登山口(50分)支尾根合流点(20分)主尾根合流点(30分)玄武城址(20分)四等三角点(10分)玄武山山頂 ■復路 玄武山山頂(15分)玄武城址(15分)主尾根合流点(15分)支尾根合流点(30分)上西集落登山口(15分)上野神社
 ○宮の平ルート ■往路 熊野神社(30分)上宮との分岐点(90分)玄武城址(20分)四等三角点(10分)玄武山山頂 ■復路 玄武山山頂(15分)玄武城址(50分)上宮との分岐点(20分)熊野神社
  ※熊野神社上宮までは、上宮との分岐点から沢伝いに20分ほど。
玄武城跡の由来の碑文が刻まれた岩壁 宮の平から見る玄武山 熊野神社上宮

第12回 鎌野から不動峰の岩峰へ(熊本県山都町)

謎の薬師堂と秋の野の花

 不動峰(標高950m、旧清和村)と黒峰(標高1283.0m、同)を結ぶ尾根の東北側直下に、古びた薬師堂(写真下左)がある。
 鎌野集落(旧清和村)北側から、黒峰林道を3qほど谷奥に入ると、谷がやや開けた平場に小さな社(やしろ)がある。社の前には、スギの大木が数本。境内にはミョウガが自生し、苔むした小さな灯籠が2つ。そのほかには、風化した五輪の塔が社からやや離れたスギの根本にあるぐらいである。
 こんな人里離れた薬師堂であるが、内部には室町時代の作と伝えられる小さな薬師如来座像が安置されている。その薬師如来座像は、本体と背景の岩窟、台座とも一本の木から彫り出されたものだという。
 かつての黒峰は、自然林に覆われていたと伝えられる。山名の「黒峰」は、うっそうとした大木に包まれていたことによる。集落からかなり離れた黒峰の麓に、古くからの薬師堂が残ることから、「木地師」の影がちらつく。
 黒峰と尾根続きの不動峰(写真下中)は、脊梁山地のまさに北端のピークである。ちょうど、霧立越(きりたちごえ)の尾根が、緑川でとぎれる位置にある。
 不動峰は国土地理院の地図には山名が記されていない。山頂にテレビ中継所(清和テレビ中継放送局)が設置された時に名付けられたから、戦後もかなり遅くなっての命名である。
 登山路は、鎌野と沢津から。いずれからも、山頂直下まで作業林道が通じるが、台風被害で鎌野からの林道は決壊し、自動車では登れなくなった。9月末(2005年)に、その鎌野からの作業林道を山頂まで歩いた。
 鎌野最奥の人家前から、舗装された林道が不動峰に向かって延びる。林道沿いには、秋の野の花が咲く。ハガクレツリフネソウ、ツリフネソウ、キツリフネ、クサフジ、ツユクサ、ママコノシリヌグイ、ゲンノショウコ、ミズヒキ、シシウド、キケマン、シシウド、アザミ、シラネセンキュウ、キバナアキギリ、マツカゼソウ…。数えあげたらきりがない。
 大雨の沢水に洗われた林道には、流れ込んだ土砂が残ったまま。鎌野の上では、林道そのものが崩落している。崩壊地を横切ると、林道脇にバアソブ(写真下右)の花が一輪と花期のややすぎたフシグロセンノウ、オオバショウマが数輪。
 その先で、アケビの皮が点々と林道に落ちている。見上げると、林道脇の木々にアケビの実がいくつもぶら下がっている。あたりには野鳥の声がうるさい。
 林道は、不動峰北斜面をつづらに登る。標高が高くなると、オタカラコウが現れた。すぐ脇にはアケボノソウも数株あり、写真撮影が忙しい。残暑もやわらぎ、思ったほど汗をかかない。
 鎌野から1時間15分で、黒峰への林道との分岐点。不動峰へは、そこを直進。さらに15分歩くと、沢津からの作業林道との三差路となる。ここまで登ると、不動峰山頂は近い。
 三差路からすぐで、小屋のある広場に到着する。ここからは、北側の展望が開ける。眼下は鎌野集落の屋根。その奥が旧清和村中心地の大川。さらに奥には、阿蘇南外輪の裾野が広がる。
 広場からは、山頂まで遊歩道が延びる。コンクリートの階段をたどり、岩場に架けられた鉄製の階段を上りきると、不動峰山頂である。
 山頂一帯は、アカマツ、ミズナラの茂ったやせ尾根となり、2つのテレビ中継局施設が建つ。この日は、手前のテレビ中継局で工事が進められていた。沢津から空中索道を延ばし、生コンを荷揚げしてある。現場の脇を抜けて、もう1つのテレビ中継局前に出ると、こちらはすでに新しい施設に建て替えられていた。
 薄曇りの空の下、残念ながら思ったほどの展望には恵まれなかった。
■往路 鎌野(林道を75分)黒峰との林道分岐点(林道を15分)沢津との林道分岐点(林道を5分)小屋のある広場(コンクリート遊歩道を15分)不動峰山頂
■復路 不動峰山頂(遊歩道と林道を10分)沢津との林道分岐点(林道を10分)黒峰との林道分岐点(林道を60分)
薬師堂 緑川左岸から見る不動峰(左)と黒峰(右奥) 林道脇に咲くバアソブ

山人の生活文化・熊本里山通信ホームページ