8月から9月にかけて、吉無田高原ではユウスゲ(ユリ科)の花が見られる。ユウスゲ(写真下左)は別名キスゲと呼ばれ、山地の草原や林の縁に自生する多年草である。本州の高原地帯に大群落を作ることで知られているが、ここ吉無田高原と隣接する阿蘇郡西原村の原野一帯にも、ポツポツと花を咲かせる。
ユウスゲの花は、淡黄色で同じ仲間のノカンゾウやヤブカンゾウと比べると、随分と上品な印象がある。ただし、花は夕方開いて翌日の午前中にはしぼんでしまう。夜の花である。
写真のユウスゲは、吉無田高原「緑の村」近くの道路脇にポツンと咲いていた花である。同じ時期、西原村出の口集落の奥に広がる原野では、コオニユリやカワラナデシコ(写真下中)と競うように、ポツポツと結構な数の花が見られた。
このほか、吉無田高原一帯では、オミナエシ、クルマバナ、シシウド、ノコギリソウ、ヒキオコシ、マツムシソウ、ヒヨドリバナ、ツリガネニンジン、ヤマジノホトトギス、ボタンヅルなどの姿が見られる。
ユウスゲや夏の花々が咲くころ、吉無田高原ではさまざまな行事が続いた。
8月5日には、水源地区の今年2回目の町道草刈り(午前中)と、田代地区あげての吉無田高原夏祭りの開催(夕方以降)。17日は吉無田土地改良組合の役員会。20日は、地元関係者による溜池問題についての対策会議。29日は、村おこしグループ「虹の会」の秋蕎麦の種まきと月例会。
9月に入ると、8日に地元の旧田代東部小学校で「吉無田名画上映会」の準備。15日には蜩窯でのコンサート。20日は水源地区の「阿蘇詣り」(午前中)と第3回目の町道草刈り(午後)、「さか迎え」(夕方)である。
また、22日は、午後7時半から第1回目の「吉無田名画上映会」が開催された。「虹の会」メンバーが中心となって、小学校跡地・校舎の活用策を考える活動の一環として企画されたもの。
同小学校は今年3月に閉校となった後、ほどんど利用されていない。地元主導で校舎をうまく生かすきっかけづくりが、「吉無田名画上映会」の目的である。
また、9月15日夜の蜩窯コンサート「pasion」(情熱)は、坂本龍一・森山良子などのバックミュージシャンとして活躍中の梅田光雄(ギター、熊本市出身)、田中裕士(ピアノ、京都市出身)に、フラメンコダンサーの渕上リサ(熊本市出身)を加えた豪華な夜となった。(写真下右)
意外と知られていないが、里山通信社のある御船町水源地区を流れる八勢川には、渓流魚のヤマメが棲息している。
八勢川は、吉無田水源から流れ下る清流だが、源流はさらに上流・阿蘇南外輪の地蔵峠(標高1086m)と十文字(標高800m)を結ぶ稜線あたりになる。それほど標高の高いところを流れるわけでないが、水源地区より上流には人家もなく、広大な国有林があるせいか、ヤマメが生きる自然環境が残されている。
7月下旬、吉無田水源の下流域には、ヤマメを狙う釣り人(写真上中)がチラホラ姿を見せる。ちょうど土場集落上流の山の神様あたりが、ヤマメ釣りのエリアである。この日見かけた釣り人は、山の神様前で20pクラスのヤマメが2匹釣り上げていた。(写真上左)
また、ヤマメ釣りにとっては外道のアブラメ(写真上右)も、八勢川には多い。土場集落から下流はアブラメ、ハエの棲息域となり、さらに御船川と合流すればアユの舞う川となる。
そして、八勢川上流の棚田で田植えが終わる頃、水源地区では水神祭り(今年は7月20日)が行われる。
水源地区の水神祭りは、古くからの伝統行事ではない。20数年前、水源地区で働き盛りの男性が水の事故で亡くなるということがあった。それ以来、地区の人たちが供養と村人の安全を祈って始めた行事である。八勢川沿いの水神様も、その時に地区の人たちの手で祀られたものである。
当日は、地区の人たちが公民館に集まり、米を持ち寄り、自家製の野菜でご馳走を作る。料理を作るのは女性の役割。男性たちは、水神様に供える御神酒を入れる竹筒と、野菜を包む藁づとを用意する(写真下左)。準備が整うと、水神様に供え手を合わせる(写真下中)。それが済むと、公民館でご馳走を囲んだ慰労会が行われる(写真下右)。こうして、水神様に祈るようになってからは、水源地区では水害や水の事故は起きなくなったという。
過疎化と高齢化の進む地方の末端では、まだ自然が自然らしい姿を見せ、人々はそんな自然に対する畏敬の念を失うことなく暮らしている。
吉無田高原には、地元以外から移り住み、創造性のある仕事を生み出している人たちがいる。
ジャズピアニストの細川正彦さん(写真下左)が、福岡市から吉無田高原の麓・御船町田代に居を移したのが5年前のことである。私との出会いもその直後である。
住まいは、水道もない山の中の一軒屋(写真下右)だが、室内には巨大なグランドピアノ(写真下中)が鎮座している。自ら「吉無田スタジオ」と名づけた録音スタジオ兼自宅である。
細川さんは、昭和37年8月生まれ。東京都出身、独身。20歳になってからピアノを、21歳からは作曲を学ぶが、いずれも独学・晩学である。だが、半年後にはクラブでピアノを弾き始めている。天賦の才があった。「小学校6年生のころから、ラジオのFM放送でジャズを聞いていた」というから、ピアノなら、まずジャズだったといえる。
クラブで弾き始めた後、22歳から3年間ほど専門家についてクラッシックを学ぶ。それからは「音楽で食っていく」と覚悟を決め、ジャズの演奏活動をスタートしている。
テレビのコマーシャルソングや企業の宣伝ビデオ用音楽の作曲に手を染めたのが、20代後半から。主に、シーケンサーを駆使しコンピューターによる音楽づくりを始めている。
30歳の時、突然、東京都内から福岡市に引っ越す。細川さんによると「27歳のころ、2ヵ月ほどヨーロッパを旅した。ヨーロッパの人々のノンビリした暮らしに触れて、バブル期で狂ったように働いていた東京での自分の生活がいやになった」という。ヨーロッパから帰り、演奏で訪れた福岡市が気に入る。その3年後に、ようやく福岡市に移住する。
ただ、10年近くいた福岡でも物足らないものを感じたらしい。「もっと田舎に住みたい」と思ったのが、今の一軒屋を借りるきっかけだった。現在は、福岡市内のマンションに設けた仕事場と「吉無田スタジオ」兼自宅との間を行ったり来たりの生活である。
活動の幅も、作曲だけでなく演奏活動やジャズアルバムづくりへと横の広がりが出てきた。
1昨年、池田篤(アルトサックス)とのデュオアルバム「インターリュード」を自らのレーベル(CMS)から発売。
昨年は、小牧良平(ベース)、中村健(ドラム)とによる「トリオ」を発売した。いずれも「吉無田スタジオ」での録音である。
「これからはレーベル活動を広げていきたい。ジャンルもジャズにとらわれず、独自色のある音楽を創造したい」という。録音には最適という吉無田から、近く3枚目のアルバムをリリース予定である。
里山通信社の地元・吉無田高原を中心に、隣接する阿蘇郡西原村冠ヶ岳や上益城郡山都町大矢野原の原野では、4月末から5月末にかけて山や野の花々が咲く。この時期は、吉無田高原が最も輝く時期でもある。
4月末、西原村の冠ヶ岳裾野の原野では、キスミレ(写真下左)が点々と姿を見せる。ちょうど、ウルイ(オオバギボウシ)の新芽が地表に現れるころで、シシウドやワラビ、ゼンマイ、クララも一斉に芽吹く。吉無田高原もようやく春らしくなり、山菜の季節を迎える。
キスミレが盛りを過ぎるころ、同じ原野ではツクシシオガマが点々と現れる。ヤマウドが芽を出すのもちょうどそのころ。また、ヒメハギの小さな花も、林道脇の陽当たりのよい場所で見られる。
里山通信社近くでは、コウライテンナンショウやカキドオシ、ニガナ、ホウチャクソウ、ナルコユリなどが、林道と雑木林の境あたりにたくさん咲く。
陽当たりのよいところでは、キンポウゲやオカオグルマ、ノアザミ、ハハコグサが花をたくさんつける。同時に、吉無田高原から大矢野原にかけての、やや陽当たりの悪い林の縁では、カノコソウ(写真下中)やハナウド、シャガが一斉に花を開き始める時期でもある。
今年初めて、里山通信社から蜩窯に下る簡易舗装道の脇に、キンランが咲いているのに気がついた。その近くでは、ニシキウツギやコガクウツギ、ツリバナ、サワフタギ、マルバウツギ、エゴノキ、ノイバラ、ミズキ、ヤマグリなどが枝いっぱいの花をつける。おかげで、毎日見飽きることがない。
これらの花々がようやく盛りを過ぎる頃、里山通信社の裏庭ではハナミズキ(写真下右)たちが、大ぶりの白い花を咲かせ始めるのである。
里山通信社のある御船町田代地区では、地元の田代東部小学校が、平成18年度いっぱいで統廃合された。
同校は明治7年4月の創立。昭和15年に高等科を併設し、田代東部尋常高等小学校となる。戦後、高等科が七滝中学校として分離、校名が現在の田代東部小学校となった。
卒業生は約2000名。2月25日に閉校記念式典(写真下左)、3月22日に最後の卒業式(写真下中)が行われた。いずれも、関係者だけでなく地元の人たちが多数出席した。田代地区の人々は、地区の人々の心のよりどころであった小学校の閉校を惜しんだ。
田代東部小学校の統廃合と合わせて、旧七滝村時代から続く、上野小学校、七滝小学校も閉校。3校を統合した七滝中央小学校が、旧上野小学校敷地に建設された。
また、3小学校の生徒が通っていた七滝中学校も閉校となり、平坦地の御船中学校と統合されている。
同時に、地元唯一の公共交通機関であった熊本バス三間伏(みつまぶし)線(田代と御船町中心地を結ぶ)も3月末に廃止された。
ただし、バス路線については、地元タクシー会社麻生タクシー(バス運行に合わせて麻生交通と社名変更)による代替運行が始まり、かろうじて公共交通機関の足は確保されてはいる。
このように、都市部から離れた山間地・中山間地では、生活に欠かせない基本条件が、徐々に失われつつある。
「美しい国」とは、一体どういう意味なのであろうか。都市部で便利な暮らしを享受できる裕福な人々が唱える、ありがたいお題目なのであろうか。
地方では、すでに「美しい国」などと、耳障りのよい言葉で現実をごまかすことのできない状況が迫っているのである。
4月末になると田代地区の棚田では、苗床の用意が始まる(写真下右)。そして、春の花も一斉に姿をみせるようになる。
キンポウゲ、ニガナ、オカオグルマの黄色やノアザミの鮮やかな赤が、町道や林道沿いで目立つのもこの時期。やや日陰の山の斜面では、シャガの白い花やカキドオシ、コウライテンナンショウなどが見られるようになる。
田代は「美しい土地」である。しかし、田代で暮らしていると、実は「美しい国」を唱えている人々には、地方の現実など眼中にないことが、よくわかるのである。
冬の御船町吉無田高原は、麓の人がびっくりするほど雪が積もる。
吉無田高原の一角、標高550mの里山通信社でも、2月1日に5pほどの積雪があった。それでも、近所の人たちと顔を合わせると「今年はあったかい。雪も少なくていい」との会話となる。
いつもの年なら、この時期には積雪と道路凍結で役場まで下れないことが一、二度あるのだが、今年はまだない。
そんな暖冬のせいか、2月になっても、近くの吉無田水源が大にぎわいである。「うまい水」として、平日でも早朝から水くみに訪れる人が絶えない。
吉無田水源の奥に広がる森林は、肥後細川藩の藩有林であった。江戸時代の文化12年(1815)に、当時の山支配役が郡奉行に相談して、一大植林事業を興している。こうして、弘化4年(1847)までに、実に240万本もの植林を行っている。
吉無田水源の「うまい水」を生み出したのは、営々と植林を手がけてきた先人の努力のたまものである。
そんな2月、私は水源の賑わいを横目に、近くの八勢川の支流谷に足を運ぶ。フキノトウやセリを摘むためである。
吉無田水源のやや下流、本流の八勢川から分かれて、棚田の連なる小さな谷がある。谷沿いには林道が走り、林道の奥には、山水の湧き出る田んぼがある。
毎年2月末には、この谷の奥でセリ(写真下左)をたっぷり摘むことにしている。雪解け水のように冷たいせせらぎの傍らには、セリが陽光を受けて10pほど伸びていた。泥の中に指をつっこんで、根元からセリを摘み取る。
摘み取ったセリは、せせらぎで根元の泥を洗い落としてから、ビニール袋に収めることになる。
ふと、棚田の水たまりを見ると、たくさんのオタマジャクシが泳いでいるのが目に入った。昨年から休耕田となった田んぼだが、もともと、ほとんど農薬を散布することがなかったせいで、小さな生き物がたくさん暮らすことできる。
棚田から少し下った林道脇に、薄緑色のフキノトウ(写真下中)が点々と姿を見せている。こちらは、泥がつかないよう、小刀でていねいに切り取る。
持ち帰ったセリは、さっと湯がいてお浸しに。フキノトウは、薄く衣をつけてカラリと揚げる。あとは、うまい焼酎と吉無田水源水のお湯があれば、それだけで極楽気分となってしまう。
セリ独特の香りとシャキッとした食感。フキノトウのほろ苦い風味。高原の早春の味覚が、口いっぱい広がる。自然に恵まれた山暮らしの幸せを実感できる瞬間である。(写真下右)
昨年3月から、里山通信社の地元御船町田代の仲間が作っていたサトウキビが、収穫の時期を迎えた。標高五百mを超える冷涼な吉無田高原で栽培していたわけではなく、有明海に面した温暖な宇土市網田で作っていたものである。
栽培面積は二畝ほど。200キロほどの収量があった。沖縄や奄美などでは、3mほどにまで伸びるというが、熊本では半分ほどの高さまでしか成長できない。
有明海に面した宇土・三角、天草でも、昔からサトウキビを栽培していたという。収量の目安は沖縄で、反当たり6〜7トンほど。これなら、400キロほどの黒砂糖が精製できるという。
一方、三角や天草では、ずっと減って反当たり2〜3トンほど。黒砂糖にすると150キロ前後になるという。それだと、サトウキビ収量に対して、5〜7.5%ほどの黒砂糖ができることになる。
サトウキビを黒砂糖まで精製するには、専門の技術と設備が必要になる。宇城市三角町高野山「食と農体験塾」の宮田研蔵さんの指導を受け、体験塾で黒砂糖を精製することになった。
収穫したサトウキビは、外皮をむいておく。サトウキビは差し芽で栽培するために、先端部分は今年のサトウキビ用に切り取って保存することになる。
外皮をむいたサトウキビは、専用の機械にかけて、汁を絞り取る(写真下左)。絞り取ったサトウキビ汁は、大きなポリバケツ4杯分。200キロのサトウキビを絞るのに、1時間ほどかかった。絞り汁を口に入れてみると、まだ青臭いものの、すでに甘味たっぷりである。
絞ったサトウキビ汁は大きな釜に流し込み、下から強火で炊いて煮詰めていく(写真下中)。この時に「ニガリ」を加える。
サトウキビ汁は強い酸性である。そのために「ニガリ」を加え、中和する。宮田さんは、「ニガリ」を加え、しばらく混ぜてから、念のためリトマス紙試験で酸性度を調べていた。
釜の温度が上がると、アクが泡となって表面に浮いてくるが、これはていねいに漉し取る。アクをとったあとは、木ベラでていねいにかき混ぜながら、少しずつ煮詰めていく。釜からは水蒸気が立ちのぼり、だんだんと甘い香りがたち込めるようになる。
こうして3時間。煮汁はチョコレート色となり、ドロリとしてくる。最後は火を落とし、余熱で仕上げる。頃合を見て、大きな柄杓でくみ上げ、一気に鉄鍋に移す。このタイミングが品質を左右する。
早く揚げすぎると、鉄鍋の中でなかなか固まらないし苦味が出るようだ。逆に、揚げるのが遅れると、固まって扱いにくくなる。宮田さんによると、何度やっても同じようには出来ないという。
鉄鍋の中で、黒砂糖液は固まり始めるが、そのままだと蜜の部分が上に浮かび、下に不純物が沈んでしまう。急いで、木の棒でかき混ぜる。混ぜるうちに、鉄鍋の中身はネットリと固まってくる。出来上がりである(写真下右)。
完全に固まり切らないうちに、型枠に流し込む。扇風機で風を送り、冷却する。しばらくさまし、適当な大きさに割ってビニール袋に詰めれば、本日の作業は終了である。
小さな黒砂糖のかけらを口に入れてみる。ミネラルたっぷりの自然の甘味が口の中に広がる。なつかしい味である。
吉無田高原の冬の訪れは早い。11月初旬には初霜が降りる。初氷が張ったのは11月下旬のこと。ソバを収穫して1ヵ月、ようやく唐箕(とうみ)を使うところまでたどり着いた。
ソバの収穫は11月初旬。茎や枝のまま乾燥させたソバから、手の平で実をしごき落とし、さらに乾燥1週間。枯れ枝や枯れ葉の混じったソバの山を前に、さてどうしたものかと考えた。
地元区長の山川久光さんの持参した唐箕、ブリコ(バッタンバッタン)、篩(ふるい)が活躍する。まず、篩で大きな枯れ枝や茎を除く(写真下左)。除いたものを唐箕にかけると、かなりの選別ができる。
唐箕は、風の力を利用して枯れ葉や茎を飛ばし、実と分ける手動機械である。ハンドルを回すと、内部の4枚羽根が回って、風を起こす。上から枯れ枝、枯れ葉が混じったソバを落とす。すると、重い実は、風に飛ばされることなく手前に落ちるが、軽い枝や茎は、風に飛ばされて先の落ち口から落ちる。もっと軽い枯れ葉は、先端の吐き出し口から噴出される(写真下中)。
こうして選別するが、実だけのグループにも、まだ枯れ枝や葉が混じる。また、先の落ち口に飛んだ枯れ枝や枯れ葉の山にも、まだ実付きの枝が残っている。
実のグループも、再び唐箕にかけ、さらに選別する。そして、枯れ枝や枯れ葉の山も捨てるわけではない。ひとつに集めて、ブリコでたたいて、実を分離する。それを再び唐箕にかけると、いくらかの実がとれる。(写真下右)
こうして、2度3度と唐箕を通すことで、ほとんど実だけが残る。それをビニールシートに広げて、再び乾燥させる。さらに念を入れて、それをまた唐箕にかけると、ほぼ完璧な選別が完了するという具合である。
かつての農家では、収穫した穀物から茎や枝、葉などを選別することも大きな仕事であった。農業は、作物を作ることだけでなく、収穫物を食べられるようにするまでにも大きな労力が必要である。
戦前は、竹製の箕がかなり高価であったのも、そのためである。収穫物が多くても、それを手際よく確実に選別することは、農家にとっては大切な作業工程であったのだ。そのための道具は、自分の手になじんだ使いやすく丈夫なものでなくてはならない。安い大量生産の道具では、役には立たないのである。
唐箕は、竹製の箕でやるより数倍ものスピードで選別ができる。しかも、箕の使い方に熟達した人でなくとも、かなりの精度で選別できる優れものである。
唐箕は、その名のとおり、江戸時代、中国から伝わったとされている。機械化が進んだ現代では唐箕の出番はないかと思っていたが、ソバの選別に大きな力を発揮した。手加減ができるぐらいの半自動機械が、多品種少量生産の場合には、適しているのである。
12月に入り、天気のよい吉無田の朝はたいてい霜が降りている。12月3日は、里山通信社のある水源地区で天神祭りが行われた。御船町でも最も阿蘇南外輪山に近い水源地区では、天神祭りが終わると、初雪の気配が足早に近づくのである。
9月初旬に村おこしグループ「虹の会」会員で種を蒔いたソバが、ようやく収穫にこぎつけることができた。ソバ種は、会員の山川久光さんが、知り合いから分けてもらい、大切に育ててきた信州産のものである。
ソバの収穫は、種蒔きから60日から75日後と言われる。短期間で収穫できる雑穀として、重宝されてきた。
そのおかげで、かつて九州脊梁の山村では、焼き畑の最初の作物としてソバを蒔くことが多かったとされる。
ソバの種は、なるべく厚く蒔くことがコツとされてきた。できるだけ徒長させることで、刈り取りがやりやすくなり、しかも他の雑草の繁茂を抑えることができる。
収穫直前の11月10日が、写真下左である。アップで見るとわかるが、まだ青いままの若い実が混じっている。しかも、花が咲いたままの株もかなりあった。
吉無田高原では、例年11月初旬には、初霜が降りる。ソバは、霜に当てられると実がポロポロ落ちてしまうという。そのために、11月12日には収穫することになった。
実際の収穫は、すべて手作業となった(写真下中)。株が風で寝てしまっている上に、枯れていないため、鎌で刈り取らず、手で根もとから引きちぎった。
引きちぎったソバの株は、1カ所に集めて天日乾燥させることになった(写真下右)。こうして、しばらく乾燥させ、茎から実をはずし、それから唐箕などでゴミや殻を除く。さらに石臼でひいて、ようやくソバ粉となる。
10月19日は、吉無田高原麓の田代熊野坐神社秋の大祭の日であった。
田代熊野坐神社は、長禄2年(1458)の創建。祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と諾冊二神(伊弉諾尊、伊弉冊尊)である。
長禄年間は、室町時代将軍足利義政の時代。肥後では阿蘇家と菊池氏の勢力が強いころである。当時の田代地区も、阿蘇家の影響力が及ぶ地域だったはずである。
そんな時代、田代熊野座神社は紀州熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の一つ、熊野本宮大社から勧請される。ただし、現在の田代熊野坐神社本殿は、文久元年(1861)4月建設との記録が残されている。
田代熊野坐神社は、里山通信社のある水源のほか、川角、中畑、力石、杉園の上田代地区の鎮守である。現在の氏子数は72戸。毎年の祭りの請元は、これら5区で回り持ちすることになっている。今年度は水源地区が担当となったため、9月の風鎮祭、10月の大祭、2月の建国祭を執り行う。
大祭前日の18日には、水源地区から戸主ら12人が参加、本殿・拝殿・境内の掃除と注連縄づくり、矢旗・国旗の準備と相撲場の整備を行った。翌19日の神事と奉納相撲(子供相撲)のための準備である。
このうち、大注連縄は神社入り口の鳥居にかけるもの。あとは、本殿、拝殿、境内の猿田彦、クス・シイの大木に使う。
鳥居用の大注連縄は、10日ほど前に山川区長宅で用意してあった。山川区長を中心に、蜩窯渡辺さん、里山通信社栗原がせっせと作り上げたものである。モチワラを材料に、中太の注連縄を3本綯い、それをさらに1本に合わせ綯ったものだった。ところが、18日になって巻き方が左右反対なことに気づき、境内で急いで綯い直すことになった大注連縄である。
こうして、翌19日の大祭の準備が終了したのが午後5時半ごろ。翌日の午前中にも、大祭用のおにぎりと餅の準備があるため、2日続けての準備となる。
19日は、午前8時に山川区長宅に18人が集合。餅を3升3合3勺分、おにぎりを3升3合3勺分用意する(写真下左)。ただし、餅を丸めたり、にぎりめしを握るのは男性の役割と決められている。餅は切り餅と5段重ねの鏡餅3組。いずれも、紅白の餅を用意する。
神事は午後2時からである。それまでに、本殿へのお供え物、拝殿下での紅白餅、お茶、御神酒の接待準備、子供相撲の受付や花代の用意をすませておく。
神主の道山さんが午後1時半に到着。神楽舞と太鼓、笛の人もそろう。2時から神主の祝詞と玉串奉奠、神楽舞いがある。今年は、拝殿に80数名の氏子が集まった。(写真下中)
神事のあとが、地元田代東部小学校児童による子供相撲である。花代(勝てば200円、負ければ100円)がかかっているので、子供たちの目の色も変わる。いい勝負には、見物席から懸賞金も出るために、小遣い稼ぎのチャンスである。(写真下右)
朝から用意した3升3合3勺の握り飯は、熱戦を続けた子供相撲の力士たちに振る舞われた。
かつては、境内に出店が並び、近在からたくさんの人がやって来ていた大祭も年々寂しくなってきた。このまま高齢化と過疎化が進めば、祭りそのものの維持も難しくなるのかもしれない。
9月24日、吉無田高原の裾野にある田代東部小学校(米原寿昭校長)の最後の運動会が行われた。(写真下左)
同校の創立は明治7年、132年の歴史を持つ。卒業生は2000名を超えるが、現在の児童数はわずか15名、PTA戸数も11戸にまで減った。過疎化の波をもろにかぶる形で、10数年前から急激に児童数が減少していた。(写真下中)
同校は、平成18年度いっぱいで、他の山間部2校(上野小学校、七滝小学校)と統廃合される。統廃合後の新しい小学校(七滝中央小学校)は、すでに現在の上野小学校隣接地(田代東部小学校から4キロほど市街地側へ下った場所)に建設中である。
田代地区のもう一つの小学校であった田代西部小学校は、一足早く平成17年度から上野小学校に統合されており、東部小閉校により、田代地区からは小学校がなくなることになる。
田代東部小学校は、御船町の山間部で最も奥地にある小学校である。御船町役場からは、県道で12qほど山間地を登った地点にある。校区内の集落は、吉無田高原から流れ出す矢形川や八勢川の上流地帯に点在している。
昔から人々は川沿いに開けた棚田や段々畑を耕してきたが、戦後は国有地の払い下げを受けて、高原地帯での畜産・肥育、茶栽培や高冷地野菜の栽培を手がけてきた。しかし、他の農山漁村同様、高度経済成長期に若い働き手がどんどん都市部に流失している。後継者が、あっという間に姿を消したわけである。
また、戦後、熊本営林局が吉無田から河原(西原村)、大矢(旧矢部町)までつながる広大な官山(国有林野)を開発・維持管理してきた。熊本営林局のもとで山林事業に関わってきた多くの関係者も、林野事業の縮小とともに、その多くが田代地区から転出している。
地元に残ったのは、平坦地へ通勤するサラリーマンや公務員、自営業者がほとんど。親の代からの農業・畜産業を継いだのは、茶栽培や牛肥育、養豚などのごく一部の人たちだけである。
このように、高度経済成長期以降の田代地区の社会・経済環境を簡単に俯瞰するだけでも、日本各地の過疎地と同様な経過をたどってきたことがわかる。今更言うまでもないことだが、地方の各地で引き起こされた過疎化・高齢化は、日本の繁栄と引き替えにもたらされたもの。「地方」と呼ばれる地域で、今後も長い尾を引きずるようにいつまでも続くことになる。
東部小の運動会の四日前には、水源地区での「阿蘇参り」と「さか迎え」の行事が行われた(写真下右)。「阿蘇参り」のため、水源地区の人々が阿蘇南郷谷との境・地蔵峠(標高1086m)に登った。参加したメンバーも高齢者が中心である。過疎化・高齢化は、地区の人たちが集まった時に実感されるのである。
132年の歴史を持つ山間の小学校が消えるということは、日本の「地方」が終焉を迎えつつあることの象徴的な出来事だと、考えざるを得ないのである。
私が訪ねたその日、扇田俊明さん(写真下左、66歳)は、収穫したブルーベリーの梱包作業の真っ最中であった。いずれも、遠くの友人知人に送るものだという。
ツヤツヤとした粒ぞろいのブルーベリーを納めた発泡スチロールの箱には、『吉無田高原ブルーベリー』のラベルが貼られている。説明書には「南阿蘇標高六百mの冷涼な高原で、清冽な吉無田水源の名水で育まれた自然栽培のブルーベリーです」と書かれている。
扇田さんが吉無田に自宅を建て、東京から奥さんの親子(ちかこ)さんと引っ越して来たのが、平成8年冬のことである。それからは、生活の拠点を吉無田に置きながら、1年の半分は会社がある東京で暮らす生活を続けている。ただ、近い将来には、生活の拠点を完全に吉無田に移す予定でいる。
扇田さんは関西の出身。神戸で生まれ、奈良で育った。大学卒業後、原子力関連メーカーに就職。その後、野村総合研究所に転じ調査研究職にあったが、44歳で独立。東京で技術経済研究所を立ち上げた。
技術経済研究所では、野村総研でのキャリアと専門知識を生かし「エネルギー問題、技術開発に関連した企業戦略や政策の調査研究業務」(扇田さん)にあたってきた。現在はエネルギー問題から発展して、地球温暖化問題の世界各国の政策分析が中心になっている。そんな日本の政府や産業・企業の政策に係わる仕事をしていた扇田さんが、なぜ吉無田高原に来たのか。
「神経をすり減らす厳しい調査研究からリタイヤした後の生活設計を、早くから検討していた。なるべく早い段階で、地方に広い土地を確保し、農業というのではなく、ガーデニングなどを含めた自然を相手にした『農的生活』を考えていた。そのために、東京近郊から東北地方、関西地方などで農地や山地の適地を探していた。たまたま熊本の不動産会社の紹介で、吉無田で農地を購入することができた」という。
こうして平成6年に、里山通信社の近くに2ヘクタールの土地を手に入れ、会社経営の傍ら『農的生活』に片足を突っ込むことになった。
吉無田でブルーベリーを選んだのは「栽培がやさしいこと。手間がかからないし、無農薬・無肥料で育てられる。虫の害や病気にも強いことから」という。移住前から少しずつ買い集めていたブルーベリーの苗を、吉無田で試験的に栽培することから開始。3年前からは、本格的に農園での栽培に乗り出した。
現在は、東京などから運んだ100本の苗が大きく育ち、毎年鈴なりの実を付けるまでになった。その後も、新しい品種の苗を購入したり、挿し木で増やしたりなどで、農園のブルーベリーは400本まで増えている。(写真下中)
扇田さんによると、ブルーベリーの品種は多種多様で、北方系のローブッシュ、ハイブッシュと、それより南でも栽培できるサザンハイブッシュ、もっと南で栽培可能なラビットアイなどに大きく分けることができる。酸性土の方が栽培には適しているという。
扇田さんは「吉無田は気候的には、ブルーベリー栽培にまずまずの土地柄。うちでは、ハイブッシュとラビットアイが中心だが、最近サザンハイブッシュも導入した」という。
これからの課題は、摘み取る手間のかかるブルーベリー(写真下右)をどういう形で収入につなげるかということである。
「観光ブルーベリー園にするには規模が小さすぎる。ジャム、ソース、ドライフルーツなどの加工品にすることも考えられる。ただし、個人的には、望んでいるような田舎暮らしでビシネスを展開するというのは難しいと思う。これまでの人生の延長として、自然を相手にした精神的に豊かな暮らしをしたい。その一環として、吉無田でブルーベリーを作り続けるが、今後はガーデニングにも力を入れたい」
6月24日と25日の2日間に、今年初めての「お籠り」が行われた。「里山通信」19号でも述べたとおり、「お籠り」は水源地区九十九折にある薬師堂と天神堂(写真下左)で行われる。
「お籠り」は、年8回行われる。田植えが済んで一段落した6月末、稲刈りが終わった10月と11月、年明けの1月である。いずれも、薬師堂(現在の九十九折公民館)と天神堂で2日連続して行われる。時間は午後1時から午後4時までである。
当日は、堂守りさん(今年は初めて私が担当する)が九十九折公民館で湯を沸かし、ポットに詰めておく。急須と茶葉、湯のみ、それに御神酒を用意する。御神酒は、薬師さんと天神さんにお供えするものだが、その後、集まった人たちに振舞われることになる。
24日、薬師堂に集まったのは、私を含めて8人。用意するために、昼12時30分ごろ薬師堂に到着すると、すでに何人かの村の人が待ち構えていた。急いで湯を沸かし、お茶の用意をすることになった。堂守り初体験であわててしまう。
「お籠り」には、みんな手ぶらではこない。当日の朝早くから用意したらしい、ちょっとした手料理や袋菓子などを持参する。長めの座卓を囲んで、なじみの顔が並ぶ。お茶をすすると、だれともなく話しを始める。行政や国のやることへの厳しい意見、農作業の進み具合、知人・友人・家族の消息、人の噂話、年金や体調のこと、今年度いっぱいで閉校になる田代東部小学校と七滝中学校の話題、そして日ごろの愚痴などである。
翌25日は、天神堂での「お籠り」。この日は、顔ぶれが少し入れ替わったが、堂守りを含めて8人が小さな堂内に集まった。ほとんど同じメンバーで2日連続となると、会話も初日より突っ込んだ内容となる。日頃村人同士でじっくりと話す機会も少ないこともあって、この日はそれぞれが自分の考えをたっぷりと語ることができた。聞く方も、相槌を打って聞き入り、語り手の話に対して自分の感想を述べる。こうして、午後4時を過ぎると「お籠り」も散会となった。
田植えが済み、「お籠り」が終わると、吉無田高原は初夏を迎える。
このころは、夏草が繁り、吉無田高原を覆いつくす時期である。
7月初旬、吉無田高原に隣接したオダラ(ヲダラ)の原野(写真下中)を訪れると、オカトラノオ(写真下右)の白い花が咲き始めていた。大きく伸びた夏草の間には、ノコギリソウが背を伸ばし、夏草の勢いのないような斜面には、ネジバナやミヤコグサの花が点々とある。一方、今まで咲き誇っていたウツボグサやネムノキの花は、そろそろ終わりに近づいている。
そして、沢筋にまで降りてみると、早くもツリフネソウの朱色の花が咲き始めていた。遠くからは、カッコウの鳴き声が頻繁に聞こえてくる。高原に盛夏が訪れるのは、麓よりもずっと早いのである。
5月から6月にかけて、里山通信社のある水源地区では、地域の行事が続いた。
5月14日(日)は、地元の七滝中学校(尾坂利夫校長、生徒数56人)の最後の運動会(写真下左)があった。わが家の4人の子たちが通った中学校も、今年度いっぱいで御船中学校に統廃合される。長女から三男(現在3年生)まで、通算8年間お世話になった中学校も、あと9カ月ほどで閉校である。
七滝中学校は、昭和22年の創立。過疎化と少子化の影響は、こんな中山間地に極端なかたちで現れる。当日は、これが最後ということから、地元総参加の運動会となった。校区内の老人会、消防団を中心に地元の人たちが大勢参加した。
あわせて、七滝中学校校区の3小学校(田代東部小、上野小、七滝小)も1校に統廃合され、かつては1中学校4小学校があった旧七滝村は、小学校が1校残るのみとなってしまった。
今年度の村での役割分担で、里山通信社に堂守さんの仕事がまわったきた。
水源地区には、天神堂、観音堂(九十九折公民館)、山の神様の3つのお堂がある。そのうち、天神堂と観音堂の掃除・花替えを毎月1日と15日に行うのが、堂守さんの仕事である。だが、それだけではない。お籠もりがある。
天神堂には菅原道真公(写真下中)、観音堂には観音様(写真下右)が祀られている。6月末、田植えの終わった後と11月・12月・1月に天神堂と薬師堂で1回ずつ。合計8回のお籠もりがある。
お籠もりの当日、堂守さんは午後1時にお茶の用意をして、お堂で待機する。すると、地元のお年寄り(主におばあさんたち)が、お菓子を持って三々五々やってくる。こうして夕方まで、お茶とお菓子でゆったりと過ごすというのが、お籠もりである。
お籠もりは、農作業・山仕事が一段落した時期に、山人がお堂に集まって、よもやま話しをしながら仕事の疲れをいやすという習慣である。水源地区にまだたくさんの子供たちがいたころは、お菓子を目当てに子供たちも楽しみにしていたというが、過疎化と少子化で、いつの間にかお年寄りだけの集まりとなってしまった。
もう1つ、水源地区では今年度、田代熊野座神社の大祭受け元の仕事が加わった。田代熊野座神社は、水源地区が氏子として属する神社である。氏子数81戸。麓の津ケ峰にある。氏子となる5地区が1年交替で大祭などの年間行事の準備と神殿配電境内の掃除を受け持っている。
水源地区では、12戸を3組に分けて、月2回の掃除と花替えを行う。これに加えて、大祭時の神棚・本殿・境内の掃除、しめ縄・奉納相撲場・相撲用にぎり飯・作り・旗立て・式場・直会・子供相撲の準備と後片付けなどの仕事があることになる。
このように、村の維持管理には、随分と労力が必要である。過疎化と少子化がさらに進めば、こんな年間行事さえもままならなくなるのではないか。日本人が伝えてきた生活文化が、近い将来水源地区のような山村でも消滅するのではないか…。
4月になると、吉無田高原一帯は山の幸の季節を迎える。里山通信社から八勢川をはさんだ谷向こうには、大矢野原の原野が広がる。そのうち、八勢川の支流オダラ川に沿った草原一帯を、地元では「オダラ」と呼んでいる。
「オダラ」では3月末から4月中旬にかけて、「アカナバ」が姿を現す。「アカナバ」は、一般には、ベニヤマタケと呼ばれるキノコである。地元では、鮮やかな赤い色から「アカナバ」と呼び、昔から山の幸として利用していた。写真上左は、4月1日にオダラで見つけた「アカナバ」である。野焼きの終わったなだらかな原野に、ハルリンドウと仲良く群落を作っていた。
「アカナバ」は目立つ赤色をしているので、すぐに見つかるかと思っていたが、そうでもない。小さなキノコなので、目を凝らして草原を歩き回らないとなかなか見つからない。1時間ほど「オダラ」を這いずり回った末の収穫が、写真上中である。地元では、「アカバナ」を春の味覚として珍重してきた。主に炊き込みご飯にして食べていたという。
里山通信社でも、炊き込みご飯にしてみた。「アカナバ」を加えると、ご飯がうっすらとしたピンク色に染まった。小さいながらもしっかりとした食感があり、独特の風味がある。癖のないおいしいキノコである。
「アカナバ」の終わったころ、吉無田高原から旧矢部町にかけての山々では、待望の「ダラノメ」の季節となる。写真上右は、4月10日に下矢部で採取した「ダラノメ」である。およそ3時間かけての収量である。
これまでの記録から、「ダラノメ」採集時期は、4月10日前後に標高400mで最適となり、4月15日前後には標高600mまで上昇する。吉無田高原では、4月末に標高800m前後まで採集できるが、それより高度が上がるとタラの木そのものが見当たらなくなる。
なお、写真下左は「コシアブラ」の新芽である。「ダラノメ」と、ほぼ時期も採集地も重なる山菜である。4月15日に、吉無田高原の山林内で採取したものである。
「コシアブラ」は、「ダラノメ」同様に、天プラで食べるとおいしい山菜だが、より山菜味(あるいはアク)が強い。ただ、タラの木ほど個体数が多くないので、大量に採取することはない。
そして、「ダラノメ」、「コシアブラ」が旬を迎えるころが、「ワラビ」の最盛期である。写真下中は、里山通信社の裏庭で採取した「ワラビ」である。この時期には、朝食前の10分間で笊いっぱいの「ワラビ」を摘むことができる。すぐに大きめの鍋に入れ、囲炉裏の灰をまぶし、たっぷりの熱湯を注ぐ。そのまま一昼夜置くと、完全にアクが抜ける。翌朝の味噌汁の具となる。
このほか、「ゼンマイ」も、地元では昔から利用していたが、最近は「ゼンマイ」干しの風景も見かけなくなった。写真下右は、吉無田山川家の「ゼンマイ」干しである。
吉無田高原にワラビ狩りの人が訪れるようになるころ、高原の奥地ではいよいよ「ウド」と「ウルイ」(オオバギボウシ)の季節を迎える。
4月、吉無田高原とその周辺では、野の花の季節を迎える。
里山通信社のあたりは、原野、畑、スギ・ヒノキの植林地、八勢川沿いの雑木林などが交差・混在する。そのせいか、野草や雑木が多種多様である。
里山通信社の敷地では、3月にオオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)やムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)、キランソウ(シソ科)、スミレ(スミレ科)が咲く。それが終わると、庭の片隅にナルコユリ(ユリ科、写真下左)が芽吹き始める。
ナルコユリは、元禄井手との境の日陰に咲くが、ここに移ってからしばらくして存在に気付いた。
吉無田に住んで3年目の4月。庭の雑木の下に、トカゲの尻尾のようなものがいくつも出ているのを見かけた。近くの林道沿いによく咲いているホウチャクソウ(ユリ科)かと思い、気にもとめないでいた。ところが、その芽がどんどんと伸び、いつの間にか、いくつもの葉を広げ始めた。しばらくすると、長く伸びた茎には、鳴子のような花が順序よくぶら下がっている。
それ以来、庭にナルコユリとイチヤクソウ(イチヤクソウ科)が自生しているのが、里山通信社の自慢となった。
同じころ、近くの高原野菜の畑では、ホトケノザ(シソ科)やキジムシロ(バラ科)、ゲンゲ(マメ科)、キケマン(ケシ科)、セイヨウタンポポ(キク科)、ハハコグサ(キク科)が咲き誇る。
八勢川の谷間をはさんで、里山通信社の対岸に広がるのが、大矢野原である。ここには自衛隊の演習場があり、広大な原野が残されている。
里山通信社一帯で春の花が一段落したころ、大矢野原で草原の花が開きはじめる。ハルリンドウ(リンドウ科)、フモトスミレ(スミレ科)、タチツボスミレ(スミレ科)などである。そして、それより少し遅れて、原野の谷沿いにツクシシオガマ(ゴマノハグサ科、写真下中)やキンラン(ラン科)、ツクシシヨウジョウバカマ(ユリ科、写真下右)の花が姿を見せる。
大矢野原の原野がハルリンドウに覆われるころ、近くの元禄井手沿いの雑木林では、ムベ(アケビ科)、ゴヨウアケビ(アケビ科)、カマツカ(バラ科)の花が満開となる。そして、ヤマザクラ(バラ科)の老木もようやく花をつけるのである。
小雪のちらつくような吉無田の冬には、体を動かすのがおっくうになる。不精者の私は、吉無田に住んでから、冬に遠出することがなくなった。冬場には、もっぱら近くの吉無田の森を歩き回ることにしている。
里山通信社から元禄井手に沿った踏み跡を1qほど遡ると、八勢川とぶつかる。井手の取水口である。ここからさらに、八勢川沿いの大規模林道を500m歩くと、吉無田水源である。
実は、吉無田水源は八勢川の源流ではない。源流地帯(写真下左)は、水源から延びる西吉無田林道の奥地にある。その八勢川源流に、細川藩時代から伐採されないままの巨木地帯がある。
江戸時代、吉無田は肥後細川藩の藩有林であった。下流域の御船丘陵地帯は、昔から水の乏しい地域であった。そのため、吉無田水源から元禄井手、嘉永井手という2本の用水路を引いたわけだが、水不足は容易には解決されなかったらしい。
それを解消したのが、文化12年(1815)から弘化4年(1847)にかけて行われた大植林事業である。当時の山支配役が、郡奉行に相談して植林事業が開始されたという。植林によって、吉無田官山の保水力を高め、下流に安定的に用水を供給しようという計画である。その間、約30年。約800haの「御留山」に、約240万本のスギ、ヒノキなどが植えられたとされる。
取水口から吉無田水源まで行くと、山神社(写真下中)と水神社が祀られ、そこが西吉無田林道の入り口である。林道に入ってすぐが、かつての吉無田製品事業所の跡である。
西吉無田林道を歩くと、水源橋のたもとで道が分かれる。右に入ると、林道は左右に分かれる。そこを左にとると、みたび左右に分かれる。左に向かいしばらく林道を歩くと、右手が藩有林入口(写真下右)である。
藩有林の巨木群は、天保3年(1832)に植林されたスギ670本、ヒノキ35本、サワラ35本である。広さ約3.4ha。樹齢は、170年を超える。
巨木の樹林帯には、森林管理局によって遊歩道が整備されている。八勢川にかかる木の橋を渡ると、右手に水源涵養のために植林された広葉樹帯が現れる。その境を登ると、うっそうとした藩有林となる。深閑とした森に入ると、スギ、ヒノキ、サワラの巨木に混じり、ミズナラの大木やヤマザクラが現れる。林床はアオキ、モミ、タブ、ヤブツバキなどの常緑樹で覆われている。
遊歩道はなだらかな尾根に登る。遊歩道は尾根を越え、再び西吉無田林道につながる。林道を吉無田水源に下ると、登る時には気づかなかったが、八勢川沿いのネコヤナギの芽が、かすかにふくらんでいた。
藩有林までは、吉無田水源から歩いて往復1時間半。里山通信社からなら、往復2時間半の距離である。
吉無田に住んで7年近くになる。今年の冬は、吉無田高原でも記録的な大雪となった。
例年12月には、1、2度ほど軽い降雪に見舞われるが、昨年暮れには3度にわたってかなりの雪が降った。里山通信社のあるあたりでも、積雪10pを超えることが2度。年が明けた1月も、2度にわたる大雪である。
今冬の雪について、地元の山川久光さんは「昼間にどんどん積もったのは中学生の時以来」という。40数年ぶりの大雪である。
営林署職員の山川さんは、1月の大雪時には「十文字(吉無田と西原村との境の古い峠)で仕事をしていたら、車のタイヤが埋まるほどになった。急いで下山した」という。吉無田の奥地では、それほどの大雪があった。その日、里山通信社でも15pほどの積雪(写真下左)があった。
吉無田生活7年で、気づいたことがある。里山通信社や蜩窯のあるあたり(標高530〜550m)で大雪になっても、熊本バス終点の三間伏(みつまぶし、標高400m)や水源地区公民館のある九十九折(つづら、標高400m)では、うっすらとしか雪が積もらないことである。吉無田と三間伏のちょうど中間には干無田(ほしむた、標高450m)集落があるが、ここでは、吉無田と大差ない。
なお、写真下中は、八勢川沿い標高410m地点での積雪の状態。さらに八勢川を遡ると、吉無田水源があるが、写真下右は同じ日の水源の様子である。
そんなことから、吉無田高原の裾野では、標高450mあたりが気候の変わる境界線となっているようだ。三間伏や九十九折は、昔から人が住み着いた集落だが、干無田は戦後の開拓によって生まれた。それまでは原野であった。まして、吉無田で人が暮らすようになったのは、わずか20年前からである。
昔から田代地区(吉無田高原の裾野)では、冬でも快適に暮らせるのは標高400mあたりまでということを、人々が体験として知っていた可能性がある。
そんなこともあって、吉無田地区では4輪駆動車は必需品である。2輪駆動車では、ちょっとした雪でもスリップして車は動かない。
吉無田高原を横切る大規模林林道が開通して以来、吉無田水源に名水を汲みに訪れる人が増えた。そのせいか、冬場大規模林林道でのスリップ事故が頻発している。
吉無田では一度雪が降れば、1週間近くは路面凍結することになる。市街地からの人にはちょっと理解できないが、吉無田高原と平坦地との気候の差は思った以上に大きいのである。
里山通信社のある御船町田代地区には、2つの小学校があった。平成16年四月から上野小学校に統合された田代西部小学校。そして、平成19年度から上野小学校と統廃合される田代東部小学校である。
過疎地だからこそ、ここでは、地域の人々が小中学校に寄せる愛着心が濃厚なものになり得る─と、これまで機会あるごとに、里山通信で述べている。
「東部っ子ふれあい活動」は、地域の人々と田代東部小学校の児童との交流をさらに深めるために始まった事業である。開始されたのは、平成14年度から。土曜日を利用して、地域の人が講師・指導員となって、児童にさまざまな生活技術や遊び、自然体験を伝えてきた。地域と小学校との結びつきを強める活動として、上益城郡内では高い評価を受けてきた。
これまで、川遊び、料理教室、風船づくり、山歩き、竹細工などが行われた。このうち山歩きについては、里山通信社の栗原が担当してきた。
今年の「東部っ子ふれあい活動・山歩きを楽しもう」は、11月12日(土)、阿蘇郡西原村の一ノ峯、二ノ峯、冠ヶ岳のコースで行われた。
参加者は、児童11名と増永教頭、浅井PTA会長、甲斐PTA副会長、歌野母親部長、体育振興会・小学校用務の住永さんご夫妻、小学校評議員の増田さん、そして栗原である。また、コース目的地の冠ヶ岳山頂で、所用のため別コースから登った米原校長が合流した。
当日は、朝8時に田代東部小学校に集合。自家用車5台に分乗、西原村宮山の登山口に向かった。登山口は宮山の牧野(共有地)にあり、ここからまず一ノ峯に向かった(写真下左)。
一ノ峯(標高857.9m)は、麓の西原村の人たちが風害を鎮めるために信仰してきた山である。山頂手前には、風神さんが祀られている。
一ノ峯からは、隣の二ノ峯に登り(写真下中)、さらに原野の中を南阿蘇外輪山縦走路まで向かった。南阿蘇外輪山縦走路まで登ると、さすがに息が切れるようになったが、大人よりも児童たちの方がはるかに元気。
冠ヶ岳(標高1154.1m)は、「神様の住む山」(カムリダケ)だという説があり、やはり信仰の山とされる。地蔵峠を越える自動車道が開通したおかげで、登山者が増えた。この日も、山頂には多くの登山客が訪れていた。
東部っ子は、冠ヶ岳山頂で昼食(写真下右)。帰路は、冠ヶ岳から直接、一ノ峯登山口に下った。熊本平野、阿蘇南郷谷、阿蘇五岳、九州脊梁の展望を楽しみ、足元ではマツムシソウ、リンドウ、ウメバチソウ、アキノキリンソウが咲き乱れていた。
9月20日は「阿蘇参り」の日であった。2カ月ほど前の話になるが、「阿蘇参り」のことは、ぜひ書いておきたい。
「阿蘇参り」は、田代地区の各集落で昔から行われてきた大切な年中行事である。毎年、彼岸の入りに、各集落の請け元(代表)が、阿蘇神社までお札をもらいに行く。
現在では、田代地区の各集落でも廃れてしまったところが多くなった。だが、里山通信社のある水源地区では今でも毎年続いており、村人は仕事を休んで参加する。
自動車道のなかったころ、各集落の請け元は峠道を伝い、阿蘇南外輪山の地蔵峠まで登り、さらに峠を越えて南郷谷から阿蘇神社まで歩いていたという。阿蘇神社に着いた請け元は、村のために豊作と安全祈願をし、集落の戸数にあわせた数のお札をもらい受ける。
阿蘇神社からの帰りには、南郷谷の地獄温泉などで1泊し、疲れを癒してから再び地蔵峠を越え、村まで戻っていた。
水源地区では、昔から阿蘇神社へは必ず2人1組で向かったという。「途中で1人がけがをしたり病気になっても、2人なら助け合って無事に帰ってこれるからだ」という。
「阿蘇参り」の日は、請け元の2人が阿蘇神社に旅立つ日である。その日は、2人を送り出す村人たちも地蔵峠まで登り、そこで阿蘇神社に向かう2人を見送ったという。
その「阿蘇参り」の風習も、地蔵峠を越える新しい自動車道(南阿蘇グリーンロード)が開通したことで、かなり簡素化された。
水源地区では、請け元の2人は、「阿蘇参り」の日までに自動車で阿蘇神社まで行き、用事を済ませておく。一方、残りの村人は、9月20日朝、土場(どば)の泉田さんの家の前に集合する。朝8時、村人は2台の自動車に分乗して地蔵峠に向かう。地蔵峠直下の駐車場からは、それぞれごちそうをかついで、地蔵峠まで歩いて登る。
地蔵峠は標高1086m。昔から田代(上益城郡御船町)、上野(同)だけでなく、河原(阿蘇郡西原村)や杉堂(上益城郡益城町)と阿蘇南郷谷を結ぶ重要な峠であった。峠には、3体の地蔵が奉られている。
峠に登った村人は、まず地蔵様に手を合わせ、峠近くのカヤ野で御神酒といりこを奉納する。線香に火を灯してから、阿蘇山に一礼する。こうして、阿蘇神社に向かう請け元の道中の安全を祈る。
かつては、地蔵峠で阿蘇神社に向かう代表を交えて別れの杯を交わしていたが、現在は持ち寄ったごちそうを広げ、ビールや御神酒を軽く注ぎ交わすようになった。30年前までは、御神酒でほろよい加減になって、峠で相撲をとったりして楽しんだというが、さすがに高齢者が多くなり、そんな元気はなくなった。代わりに、女衆は峠一帯でセンブリを摘んだりして楽しんでいる。
「阿蘇参り」から3日たった、彼岸の中日。阿蘇神社のお札を持ち帰った請け元の労をねぎらう「さか迎え」が行われる。昨年まで水源地区でも、9月23日に公民館に村人が集まり、慰労会が行われていた。今年からは「阿蘇参り」と「さか迎え」を同じ日に執り行うようになったが、別々の日に行うのが本来の姿である。
こうして、今年の9月20日は、地蔵峠に村人たちが登り、峠から下ってからは町道の草刈りをし、午後からは公民館で「さか迎え」の酒盛りを行うようになった。忙しい1日である。
「阿蘇参り」が終わると、水源地区では早くも稲刈りの時期を迎えることになる。
里山通信社のある田代地区の子供たちが通う御船町立田代東部小学校の運動会が、9月18日に行われた。私の四人の子どもが通った同校の運動会も、今年を含めて残すところあと2回である。平成19年3月末で、田代東部小学校は統廃合となり、姿を消す。
田代東部小学校の平成17年度児童数は15名。PTAもわずか12戸となった。最盛期には、児童数が200名を超えたというが、ここまで激減すれば統廃合もやむなしであろう。
同校の特徴は、地域とのつながりの深さであろう。過疎地である故に、地域の人たちが、小学校と子供たちへ注ぐまなざしは人一倍温かいものがある。新興住宅地が皆無で、外部からの移住者がほとんどいないこと。そして、保護者のほとんどが同校の卒業生という点も地域と小学校の結びつきを強めている。
児童数が少ないことから、個々の生徒がだれの子であるかを、校区の人たちはよく知っているのである。そしてなにかというと、小学校のために力を尽くそうとする。小学校は地域の人々の心のよりどころとである。都市部の小学校では想像できないほどの密接さがある。
そんなことから、運動会も地域ぐるみとなる。数年前までは、小学校とは別に校区運動会を行っていたが、児童減と過疎化から、地域と小学校の運動会をひとつにまとめた。そんなこともあって、ますます運動会が地域ぐるみの行事となった。
競技も白組対赤組(小学校)の対抗戦であると同時に、「3区」「4区・水源区(私の所属)」「上田代」の校区3地区の対抗戦となる。
運動会の10日前には、小学校に校区内の各団体の代表が集まる。小学校の教職員・PTA役員はもちろん、公民館役員、区長、老人会・敬老会役員、婦人会役員、校区社会福祉協議会役員、体育振興会役員、交通安全協会役員、消防団代表、中学校PTA役員などである。会議では、今年の競技種目と担当者が決められ、それに沿って参加者の割り振りや準備などについて話し合われる。
今年の会議では「毎年行われる同校出身の中学生の徒走競技では、真剣味が足りない」などという辛辣な意見も出された。運動会といって、決しておろそかにはされないのである。
児童数が少ないために、児童の競技は学年別ではなく、すべて全児童参加となる。児童の出場回数は12回もあり、運動会が終わると児童はくたくたになってしまう。
毎年、次年度の入学予定児を招いた競技を「東部の大切に宝物」と名付けるのも、決しておおげさではない。ここでは、子供はすべて地域の大切な宝物なのである。
また、同校には歴代PTA会長でつくるOB会があり、さまざまな場面で小学校を支えている。そのOB会員の競技「ドイツに向けて」や同校出身の七滝中学生の競技「100m走」「人さがし『わが師の恩』」があるのも田代東部小学校ならではである。
そして、老人会・敬老会の競技がたくさん盛り込まれている。田代東部小学校校区では、活動的な高齢者が多く、老人会・敬老会の存在抜きには運動会は成り立たないほどである。
こうして、午後3時に全競技が終了。運動会終了後の後かたづけは、教職員・児童・保護者とともに地域の人たちの手によって行われる。そして、夕方からは体育館での懇親会となり、夜遅くまでにぎわうのである。
田代東部小学校の運動会が終わると、吉無田高原も秋である。田んぼの脇ではヨメナが咲き誇るようになる。