本誌セトグール・開戦前夜

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燎原の火

アイキャッチャー 全ての始まりは金持のボンボンの次男が始めたWP(ヴェーペー、又はW.P.C.C)である。この出会いこそが現在のセトグールの栄光の元であろう。
 当時に於いてWPは全く斬新的であり、軍事演習(今で言うサバゲ)を旨とする先鋭集団だった。正式名「ウェストポイント(コンバットクラブ)」。
 WPを「ヴェーペー」と呼び始めたのは、多分「私」、他に居ないし。

 WPの中では機関紙が発行されていた。最初はビラ一枚であったが、その内にそちらの方に重きが移り、一種の同人誌となった(軍事演習はやらなくなった)。
 巷でガンダムが流行りだしたら、WPもそうなってしまった。これで多くの仲間が「バカバカしい…」と去って行った。学校で問題になる様な事も書いた。そして高校受験が来たら、自然消滅してしまった。
 (私の描いたマンガも一本紛失された)

飛躍への踏み台

目当て さて、皆高校に無事入学し、落ち着いた1981年9月30日、鳥栖高のある鼻のデカイ男がウチへやって来て、無謀にも同人誌を作ろうなどとほざき、強引にワタクシを入会させた。
 ワタクシが入会する事を前提に来たのだから強引と言える。
 まぁ一応本格的?な同人誌であるので頑張る事にした。それが直接的前身と言えるRED(のちIMPACT)である。ワタクシも鳥栖工業高校側で会員を募った。
 しかしその男=編集長は言い出しっぺのクセにイマイチ頼りなかったので(いつも締め切り日にウチで原稿を描く様な←マジ)、ハナッからガタガタの状態だった。お陰で最初の会員の幾らかはサッサと去って行った。
 私が尻を叩く係=統制部長となり、二ヶ月に一回発行を死守した( ̄ヘ ̄)
 「鳥栖高は普通高校だから勉強が忙しい」とか、「部活が大変だ」とか、最初から判っている事をイイワケにしていた。イイワケにはならん。
 私は鳥栖工の連中だけでもと思い、引き締めを測った結果、鳥栖工派寄稿率は飛躍的に伸びた…が、描き手に多少の問題があった。絵が限り無く上手くなかったのである。しかし、ともかくも発行は進んだ。
 (この時期にワタクシはWP再発行を促した)

 ある日、一人の有力会員が「ウチに来い」というので訪ねると、「俺達で本を新しくしようか」と話を持ちかけられた。
 そこで今後の方針、新しい誌名、どうやって編集長を始末するか、などが話し合われた。そして、まず穏便に編集長に誌名変更の話を伝えたら、何か感じるものがあったのだろう、編集長は怒り出した。何もせんクセに。
 有力会員はそれを見て逃げてしまったので(私は、今始めて聞いた様な顔してた)、誌名変更のみ(REDIMPACT)で刷新は終ってしまった。

 しかし後日、編集長が「受験だから本はやめる」と言ってアッサリ廃刊。8号まで。

 ||||||||||||||(* ̄ロ ̄)ガーン||||||||||||||||

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© どっかの職人さん
 まるで二階へ登らされてハシゴを外されたかの様な…
 その後編集長の受験がどうなったかはつまびらかにしない。

新しい世界

目当て 鳥栖工派を率いて路頭に迷っていた私に、良い便りが舞い込んだ。
 鈑金屋が新しく同人誌「三田川マガジソ」を作るので協力してほしいとの旨であった。ちなみに、「みたがわまがじ『そ』」で正しい。
 「マガジン+ソサエティ」と主張していた。後付けだろう。
 我々はヒラの描き手として入会したが、そこは全くの新天地で、目眩を覚えるほどのカルチャーショックだった。とにかくスゴイ絵をイキオイで見せる技法には、正直言って参ってしまった。が、活気はあったので、REDの時よりかは楽しくはあった気がする。
 他に後輩の本とかにも執筆、充実していた。 今なら「吉野ヶ里マガジソ」だったのかねぇ。

 この頃、WP三田川マガジソその他の〆切が重なって3つ程を同時に描かねばならないハメに陥った事がありました。
 いや、楽しい楽しい。WP 編集長家でブリキのバケツに具を入れたお好み焼きパーティ(ドボドボ作る)の最中も、食いながらその場で描いてました。
 その間一昼夜と半分、「カリ城」を4回半も見せられました。もうセリフもバッチリ覚えたぜ、どうしようぅ(好きじゃないんだけどね、クラリスの何が良いか判らんし)。
 もちろんもう忘れた。

 しかし、これを即売会に持って行く、などと言い出すと黙ってはいられず、ゴア似の会員と共に編集にまで口を出した。「ゴア似」て…。そして鈑金屋のやる気と、全体の士気を削いだ結果となった。三田川マガジソは、その4号で休刊(最終号)となった。
 (さり気なく「鳥栖閥」と「三田川草民」の文化的確執もあったかも知れん)
 鳥栖閥は「まがじん」と言い、草民は「まがじそ」と呼んでいた。

創刊号にボロロン  1984年4月21日、鈑金屋から代理に本を作る様に勧められた私は、これを好機とし、今までの彼らの破綻の原因を踏まえた新しいモノを作ろうと心掛けた。
 そうしてWPの読ませる技法、REDの「マンガ」という技法、三田川マガジソのイキオイを併せ持つセトグール創刊へと事が運んだ。
 またセトグールには最高の第一者(独裁指導者)による全権委任・絶対的権力集中方式を採用した。路線が揺らがない様にである。
 この様にして、セトグールの輝ける第一歩が踏み出されたのである。

 初頒布:1984年4月29日(於佐賀)

そして伝説へ…


格言 「いかなる作品も大衆に好まれるべきであり、その知的水準は作品の対象相手となる大衆の内の最下層の人々が理解できる様に調整される必要がある。
 加えて、獲得すべき大衆の数が多くなるほどに、作品の純粋の知的程度は更に低く抑えねばならない。」

 KISS = Keep It Simple, Stupid.

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