※厳密には生き残っていないが、形を変えて活動継続中という事で一つ。
かつて九州に伝説的な同人誌(と他人が書いてたよ)「セトグール」がありました。
主な活動範囲は左図の通り+福岡・大牟田方面や、一時期は北九州・東京にも進出していた昔ながらの創作系同人誌でした。
創刊当初は月刊、その後もしばらくは隔月刊体制で発行していましたが、時代が変って居場所が無くなり、現在は休刊状態です。
これ以前の話はこちらにありますので、併せてお楽しみ下さい。
※図解地勢図は鳥栖市民の目線を表してゐる、かも知れない※
さて、セトグール1号の編集に着手したが、最初の即売会まで僅か一週間しか無かった。こういう理由から記念すべき創刊号は、使いまわし原稿と少しの描き下しという目も当てられない代物となった。1号は佐賀で飛び入り参加&頒布された。
しかし不思議な事に、そんなモノが完売し、更にファンレターまで来てしまった。こういう出来過ぎた外的要因がワタクシをして燃え上がらしめる事となった。
1号と、次の2号は「ド田舎」佐賀で頒布した。
なぜ「ド田舎」と強調するかというと、その通りだからという回答の他に世の流れから遅れている現実が在ったから。
次の3号頒布に於いて表面化する、すなわち同人誌の有り様である。
創作マンガ本が主流だと考えていたのだが、3号福岡(都会)頒布に当って目ウロコな現実に直面した。むしろアニメ本が優勢ではないか。最初の大きな戦略的転換点だった。
さてその3号では一人で行ってきた制作作業を、ヒマしてた旧REDの編集長や有力会員の二人を加え、集団態勢に移行し、ページ数が格段に増加した。
指導者となった私はこの体制の維持を望んでいたが、有力会員は別理由にて離脱してしまった。
しかし新たな出会い。
「何でオレがこぎゃなモン買わないけんと?」
…とコイた、後に東京支局長となる男と、「4号は…?」
「要ら゛ん!」
…と撥ね退けた、後の佐賀支局長、他にヒゲ面ライターの三名である。
書き直しても、ここだけ消さない。
彼らの活躍は、ここに述べるまでもないのだが、この三名が力を発揮するまでは更に時間を要する。しばらくは私と旧編集長の双頭体制が続いた。
ちょうど都合良く本陣の目の前にコピー印刷可能な写真屋が開店したので、4号からほぼ自宅環境で作業を進める事が出来た。
ここまでは不定期(4月末、5〜6月、7〜8月、10月ごろ)刊行。既に月刊に近いが、そのぐらいが普通だと思っていたから。
外界では、創作よりアニメ系がますます増えて来た時期である。4号ではその反感の旨を書くに至ったが、世の中が変わる訳がなかった。
5号から、無謀にも表紙カラー化を遂行した。儲け主義だ、と戯けた勘違いする鈑金屋に見せ付けるだけの、完全な採算無視の愚策であった。更に実質7号からは完全月刊体制に移行。(鈑金屋は天神地下街で迷子にしてあげて仕返し、かよ)
何をしても損をするこの暴挙は僅か4号のみで中止し、代わりにそれまでA5であった本のサイズを10号からB5に拡大した。月刊は維持。
11号は福岡にて頒布する予定であったが、参加申込先の主催者が下らない事で言い掛かりを付けて来たので、席は取ったがボイコットし、11号は12号と合併号として大牟田にて頒布した。後にも先にも合併号はこれ1回、ページ数もほぼ1.5冊分はあった。
またこの段階で始めてPHALSAILという名前を使った(それまでは毎回考案)。
更に、さすがにアニメネタを解禁する事にした。既に創作系の方が珍しかった。
14号を頒布した折に、他団体と同盟関係を結んだ。他団体との初の本格的接触であった。また、この時に我が団体に目を付けた男がいた。それは17号段階で志願してきた、旧南佐賀支局長だった。そのまま実質的にナンバー2にまで登り詰めた。それに呼応してか、旧編集長の貢献度が下がりだした。指導者たる私に「支局」構想がよぎったのはこの時期である。(似た様な事は既にしていたが)
ナンバー2と共に参加した福岡即売会(18号)は現在でも笑い種である。
まず行きが大変であった。ナンバー2の50ccが基山で故障し、私の125ccにて二人乗りで運ぶ。
現地では開場「前」に18号完売(泣・20冊程度しか持って行ってなかった)、帰りは大雨(しかもチェルノブイリ事故の直後の雨)の中を二人乗り+故障車の牽引という、地獄行軍であった。
この様子は、挽回(売り直し)用の19号にて、当時珍しいワープロ打ちで紹介されている。
20号は創刊以来のお祭り騒ぎであった。ここに「支局」という概念が発現した。本来は描かない旧編集長の代わりのハズであったモノだが、制度自体に意志が芽生えた。この後指導者である私は、しばしばこれに振り回される事となる。
「モン」の東京支局長とヒゲ面ライターはこの時、「要ら゛ん」の佐賀支局長は22号から正式登用。以下、女子数名を含めズルズルと入って来た。
25号の時、当時連載中のC.D.Fが20回目を迎えた。支局の意志が発現し、合作マンガという形で現れた。しかし支局の数が増え、質の低下を危ぶんで27号から月刊から隔月刊体制に改変した。またこの時期、「サバイバルゲーム」路線に突入した。
27号は支局が狂い立った。いわゆる「オニャン子」騒動と呼ばれる事変である。私は売り場にいられなかった。だが、これを打ち消すほどの良い便りが私の元に届いた。
少年サンデー
同人誌グランプリ
入選っ!!!
…という栄誉を受けた。しかし当時は恥かしくて騒がなかったので誰も知らない。
お陰でタダで東京へ行き、記念の盾と、お金まで貰って来た。「モン」の東京支局長に道案内させた、ざまぁ見やがれ。この経験が以後の東京進出の足がかりとなっている。
(29号時点で『通算1000ページ』という大台に乗るッ!)
30号台に入ると「ファミコン・ゲーム」路線が台頭した。しばらくは「サバゲ」と共存していたが、私も前者を押したので後者は廃れて行った。そしてそれは号数を増すごとに著しくなった。支局はゲーム系と非ゲーム系に分裂し、まとまりが無くなった。
外界もC翼や星矢で客のほとんどが女性、指向の定まらぬ時期だった。
40号台にもなると、いいかげんシャレにならない回数となって来た支局の功労をねぎらう為、勲章(労働英雄)制度を発足した。受賞者は様々な特権を享受出来る。支局が固定化するのもこの時期である。
45号に於いて、私の縮地法を駆使した東京現地指導が実現した。ただ九州とあまりにも違う環境が作戦を阻んだ。
そして47号から「ストU」路線が勃興した。これはセトグールを誤解せしめるほどの威力を秘めていた。
お陰で男性客も戻って来たが、昔と違い、本を買わないのが悩みの種だった。
この頃のウラ表紙 | ||
45号。労働意欲促進の為に生み出された宣伝画。「ペンと羽根箒」 (/_;) 最初はお遊びだったので、この程度だったが…000000は見本誌の印。 達成! |
46号。字が踊って来た。躍動的なスローガン。率先して突っ走る偉大な指導者大元帥。増産と躍進。今書くとなぜハズイ?どうでもイイがB5版である。 達成! |
48号。やっぱり歯車だ。鋼鉄の団結。一人は全体の為、全体は一人の為。 ずいぶん先取りしたネタだったな(笑) トーンがすっげー勿体無い。 達成! |
50号台、もう惰性であった。日常の一部と化していたからである。55号だったか、主催者が銭を持ち逃げする事件があったが、今となっては楽しい思い出である。
「フィギュア・人形」路線というか、そんなモノを並べ始めたのはこの頃。
(55号時点で『通算2000ページ』という大台に乗るッ!)
60〜70号台は模型野郎の集う所となっていた。ワタクシ本人はさほどでもなかったのだが。なお、家庭の事情で東京進出は中止していた。
なんと佐賀支局長が入院した。ドカベン全巻欲しいなどとのウワゴトを叶えてやったら、病院から原稿を送って来る様になった。また知り合いの妖怪が小説を書きたカッパと言うので、しばらく使ってやった。
この頃のウラ表紙2 | |
59号。実は久しぶりにこの様なモノを描いたので、歯車の描き方を忘れてゐる。 (よく見たら旗の先にぶらさがってる) |
60号。既に醜悪な自己摸倣状態。くどいが「ろくじゅうごう」の裏表紙である。だから、60号で、あと10号で70号だよという寒いギャグな訳よサムイ。 |
妖怪が「オイたちが遊びよったコツば書かんかッパ」と勧めてきたので、私は密かに引きこもり、80号と同時に発表したのが「もびるすうつ」のマンガだった。
その妖怪はゾックにしてやったが「オイがカッパんごたるやっかッパ」と、不可解に憤慨していた。
このシリーズは予想外に好評を博し、無意味にズルズルと続いていった。結局後述の「休刊」まで続いてしまったが、ほとんどの読者は元ネタが判らないだろうな(当たり前だ)。
(83号時点で『通算3000ページ』という大台に乗るッ!)
84号から遂にパソ経由での編集などを行うようになった、つもりでした。原稿を描いてる感じがせず、異様に手間ばかり掛かるのですぐにやめました。
さて、上記の通り、時代は一家に一台コンピュータ。フロッピーディスク(10cm真四角ぐらいの磁性記憶媒体・確か 1MB 未満である)でフロクでも出そうかいと企画が持ち上がった。
旧東海支局長がそういうのはHTMLで作ると良いと言うので、そうした。
なぜかHTMLの知識はあったので、スコスコ完成したが…
しかし、それをどう間違えたか、アップロードしてしまった!
それが現在のへてめるセトグールである。当初は本誌の解説のつもりだったが、いつのまにか主客転倒してしまった。
外的要因もあった。2002年頃から客や参加者が変質していたからだ。フリマと区別が付いていない様な。参加費の高騰も事業縮小に拍車をかけた。
久留米方面では参加費の安い即売会が維持されていたが、こちらは参加者が年齢的に娘の様な女の子に占有され、居たたまれない。居場所が無いのだ。